著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム 公開トークイベントvol.2 「『知の創造と共有』からみた著作権保護期間延長問題」の雑感(3)

執筆者:大久保ゆう(April 16, 2007)

◇三遊亭圓窓さんの意見より

圓窓さんは、名前から察するとおり、落語家さんだ。今回のトークイベントでも、その得意の弁舌と江戸っ子の清々しい物言いで、もっとも拍手を受けた参加者である。だが、それだけに一抹の不安が残る。確かに圓窓さんの意見は素晴らしい。けれども、ただ拍手するだけで終わらせてしまうと、私たちはこの圓窓さんから何も学ばないままなのではないだろうか? 考えるべきは、「なぜ圓窓さんはあのような発言をすることができたのか」ではないのか?

まずは簡単に圓窓さんの意見をまとめてみよう。落語というものを簡単に分けてみると、ふたつある。ひとつは江戸時代に作られた〈古典落語〉で、もうひとつは明治以降に作られた〈新作落語〉だ。

著作権ということを考えた場合、〈古典落語〉はずいぶん昔のものだからおそらく著作権が切れている。そもそも著作者が誰だかわからないし、口伝で伝わってきたものだ。だから、仮に公表後50年まで著作権が続くとしても、ほとんど切れてしまっていると考えていいだろう。一方、〈新作落語〉はというと、これにはちゃんと著作者がいる。そして遺族もいる。だから、ちょっとやりにくいっていうところが、落語の世界にもある。

しかし、〈新作落語〉といっても、〈古典落語〉といっても、基本的には弟子に口伝で教えるもので、別に弟子から月謝を取るわけでもなし、ただで教える(譲渡する)ことになる。その弟子はまたその弟子にただで教えるだろうし、その弟子の弟子もそうだろう。そうやって、ただ、ただ、ただ、とただの積み重ねが続いていくのが、落語の〈しきたり〉というものである。

ただ、新作落語を作るとき、今ある著作物をアレンジして落語を作ることがある。そういうときは、狭い寄席でやることだから、著作者の好意でやらせてもらうことが多く、お金のやりとりはない。そしてその新作落語も弟子に教えるわけだが、自分も死んで著作者が死んだあとには、その弟子が著作者の遺族からクレームをつけられることがあるかもしれない。

落語家は〈しきたり〉にのっとってやってるんだけれど、あらためて著作権と言われると、ちょっとどうしていいか困ることもある。

また、こんなこともあった。NHKの番組で、某小説家の作品を読むという企画があり、各界の人が10分ほどその小説家の作品について語る、という番組に出たことがある。そこで、その小説家のある人情話を落語にしたいですね、という話をして、そのアイデアやら構想やらを盛り上がっていろいろと話したのだけれど、放映前に制作から電話がかかってきて、その小説家の遺族が「聞いてない!」と文句をつけてきている、と。それで放送まで止められてしまうかもしれないらしい。

でも、自分としては別にまだ落語にしたわけでなし、まだ創作すらしていない。本当にやるんなら、ちゃんと連絡するのだけれど、単に構想をしゃべっただけで遺族に文句を言われてもどうしたらよいやら。そこでひとつ手紙を書いたんだけど、何の返事もなかった。

その某小説家先生はすごい人なんだけど、別に遺族がすごいわけじゃない。作品を知らしめるために管理をしてもいいけど、人の頭の中身に対して「きいてない」って文句つけるのはよしてもらいたい。創作する前から著作権が幅をきかせるのは、どうなんだろうか。
(上記抹消線は、発言者の要請からフォーラムで公開されている動画の該当部分が削除されたため、こちらで引きました。詳しくはフォーラムのサイトを参照してください。)

落語の話をすれば、自分が生きているあいだは自分の作った新作落語には、弟子も「やらせてくれませんか」と聞いてくるかもしれないが、死んだら自由だよ。

……と、こういう感じなのだが、あえて軽妙な語り口を落としたのは、その中身をちゃんと見てもらいたいからである。ここには、今回のトークイベントのエッセンスがすべてつまっていると言っても過言ではない。ここには、創作者のひとつのあり方があるといってもいいだろう。理想といってもいいかもしれない。

では、なぜそのような理想が、あのようにあっけらかんと言えるのか? 普通の人間なら「それでもやっぱりお金は欲しいよ」と言ったり、ちょっとやせ我慢をしながら「著作権を延長しないでおこう」と言うだけなのに、なぜ圓窓さんは、何の迷いもなく「むしろ30年に短縮しちゃった方がいい」と、「死んだら自由だよ」と言えるのか?

圓窓さんは落語家である。とすれば、その落語という創作のジャンル、創作環境に秘密があるのだろうか。そこまで言わしめた落語というものの特徴を、参考のために整理して次からひとつひとつ挙げていってみよう。

  1. 落語の演目(作品)の譲渡は基本的に無料であり、演目を落語家みんなで共有している。
  2. 金銭の見返りは少ないが、目の前の客の〈笑い〉という強烈なインセンティブがある。
  3. 演目はそれだけで完成するものでなく、演じて初めて完成するものである。
  4. 客は演目でなく、その演じる噺家の〈芸〉を見に来ることが多い。
  5. 寄席は狭く、芸はその場だけのものなので、録画・録音されない限り、市場経済の中で流通することはない。
  6. 演目は伝えられるたびに、少しずつ改変され、付け足され、変容していく。

普通に考えて、何らかのインセンティブもなくずっと創作活動を続けるということは不可能だ。さらに、金銭の見返りが少ないとなればなおさらである。とすれば、たとえ金銭の見返りが少なくとも、それを凌駕するだけのインセンティブが何か存在する、ということでもある。それが落語における〈笑い〉であり、それはこのフォーラムのトークイベントやシンポジウムでも何回も出てきている、「ほめられたらちょっと嬉しい」であったり、創作者への尊敬の意であったりする、あの直接的なインセンティブなのではないだろうか。

落語は自分の身体を使ってやるため、たとえば遠く伝達するための〈本〉という媒体よりも、より直接的である。そのため、自分のやったことが、すぐに反応として客席から帰ってくる。それは自分という人間へ、目の前にいる人間からのレスポンスであり、コミュニケーションだ。その強く自分の身体に返ってくるインセンティブがあるからこそ、あるいはそのインセンティブを生み出すことのできる寄席という空間が用意され、そこに来てくれるお客さんがいるからこそ、金銭を度外視して、常に自由な状態で著作物を共有できるのではないだろうか。

そして、その著作物が自由に共有された環境で、どの落語家もまず修行をする。自由に使える著作物でもって、自分の芸を磨いていく。寄席という場所に出て、笑いというインセンティブをもらう。その反応が自分のものであるということは、自分が演目を〈演じる〉ということに保障されているし、その反応が、さらなる自分のパフォーマンスへとつながっていく。そして成長したのち、自らも新しい著作物を作るが、自分が自由に使える著作物から育ってきたことを知っているから、その自分の著作物でさえ、喜んで自由な場所に差し出していく。その自分たちの体験に裏打ちされた〈しきたり〉が、落語という空間に残っているのだとすれば、それは素晴らしいことだ。そして、そこから私たちは何かを学ぶべきだ。

もし、そのような環境が常に成立しうる場所がこの世のどこにでも存在していれば、誰しも圓窓さんのように「著作権はなくてもいい」「死んだら自由だよ」と言うことができるのではないだろうか。インターネットによって、どこでも寄席のような創作環境が作れるのであれば、ちょっと面白いことになるかもしれない。

もちろん、そこには「やらせてください」「うんいいよ」「いやだよ」というレベルの著作者人格権は残っているかもしれないが、財産権としての著作権は消滅しているかもしれない。そのようなモデルだって、圓窓さんの発言から考えてもいいのではないだろうか?(単なる絵空事に過ぎないにしても。……もしかしてそれって Web拍手の進化型みたいなものだろうか。)


(4)につづく