著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム 公開トークイベントvol.2 「『知の創造と共有』からみた著作権保護期間延長問題」の雑感(4)

執筆者:大久保ゆう(April 17, 2007)

◇椿昇さんの意見より

前回のトークイベントから気になっていた〈think C〉のロゴ、あれは椿さんが作ったものであるらしい。割とかわいらしくていいデザインだなと思っていたのだけれど、椿さんの発言のときに、自分が作者であることを明かしてくれた。

「できるだけ書体を軽く細く、thinkというのを〈軽く考える〉、軽くっていっても悪い意味じゃなくて、あんまりヘヴィに考えたくないってことで、あとCっていうのはちゃんと転がってますよね、丸Cというのをちょっと蹴ろうじゃないかと、こんなふうに蹴ってるわけです。think の方が丸Cをぽっと蹴ったんで、丸Cもころっと回り始める、そういう意味を込めて、みんなで丸Cの問題を軽く軽やかにディスカッションして、話し合っていければいいな、ということで、これをデザインしました。」

think C のサイトでは、このロゴを単体で確認することができないので、このトークイベントの動画のサムネイルとして使われている画像や動画そのものなどを見ると、どんなものか確認できる。そういえば、ふと思ったのだが、このロゴの著作権はどうなるんだろう。椿さんはトークイベントの中でも、自分の作ったものはパブリックドメインだというふうに言っているので、このロゴもフリーがなのだろうか。著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラムのサイトの著作権がいまいちよくわからないというのは、深い意味があったりするのだろうか?(少なくとも、All rights reserved は意図的に書いていないと思う。)

それはさておき、椿さんはこのトークイベントの中で、いわゆる〈現代美術〉には、著作権がかかわってこないと発言した。それについては、現代にかかわらずもっともな話だと考えていいだろう。というのも、著作権は外国では〈コピーライト〉と言われていることからも、もともとは複製する権利だった。そのため、その著作物がどのように複製され、それを管理するか、という点にいくらか重点がある。そうすると、たとえば油絵であるとか、彫刻であるとか、オブジェであるとか、そういった一点モノである美術作品はその実物が大事なのであるから、モノとして取引されることになる。つまり、著作者は最初の誰かひとりに売る際、代価を支払われるけれども、それ以後の取引については、いっさい金銭を受け取ることはない。美術作品が欲しい人は、その彫刻という物体が欲しいのであって、彫刻の写真を手許に置いたって、どうしようもないからである。

逆にもちろん、著作権がかかわってくることもある。それは絵の場合だが、油絵でもそれを写真製版したりリトグラフにしたりして、大量に販売するとなると、その絵を描いた著作者に著作権料が入る。その絵を雑誌や広告で使うとか、そういったときにもお金は入ってくる。そもそも最初から複製を目的とした版画はもちろんである。(もちろん型で作る銅像とか、当てはまるものは他にもいろいろある。)

椿さんがたびたび口にする BtoB、あるいは BtoC というのは、おそらく経済の用語である Business to Business と、Business to Consumer のことだろう。ひとつの企業から、ひとつの企業へ、一対一の取引がなされるのが BtoB だとすれば、BtoC は、ひとつの企業から大勢の消費者へ向けて、取引がなされる。消費者という存在が現れるには、まずもってその商品を大量生産できることが前提であるから、大量生産の不可能な一点モノの美術作品は、BtoC という形態を取ることはありえない。それゆえに、お金を持っている人間同士の一対一の取引でしか、成立し得ないということを、知っておく必要がある。

もうひとつ、椿さんの発言で重要なところを見るとすれば、それは Radikal Dialogue Project を紹介する文脈から、次のような発言で表現されている問題だ。

「[前略]僕はそのスターバックスの作ったようなマークをパロディにして作ってるわけです。これはドイツなんかで展覧会をするとバカウケでですね、みんな大好物なんですが、日本でそれをやりますと、学生たちがそんなことをしていいんですか、訴えられませんか、と聞くんですよね。」

そして椿さんは江戸時代では、さかんに風刺で、そのときの思潮や政治体制をちゃかしていた元気な(?)過去に触れてから、さらにこう続ける。

「ところが、なんかやっぱり最近、日本は逆に若い人たちが非常に元気がない。彼らを見ていると、『こんなことをしていいんですか?』とすぐ聞くんですね。で、やっちゃいけない、やっちゃいけない、と思いこんでて……」

ということを、パロディをしない、パロディを受け入れないという文脈で語っているのだけれど、この問題はパロディに限らず、今の若者全体を覆っている問題であるし、さらに著作権法だけでなく、むしろ法律や教育や社会の問題に大きくかかわってくる。

やりたいけれど、世間ではだめだだめだと言われている(ように思える)ので、やっちゃいけないんじゃないか、と思って、その気持ちを引っ込める。それはいわば〈抑圧〉なんだけれど、その一方で成功や完璧を当然の前提で求められるというダブルバインドに苦しめられているのが、今の若い世代だ。とかく人は、〈やりたいけどできない〉という問題を個人の問題におとしめがちであるけれど、自分も若い世代の一員として周りを見てみるに、どうもそうだとは思えない。

ITmedia の岡田さんは「おとなしい若者の“遵法意識”が芸術を縮めている」と書いているけれど、もうそれどころではなくて、(根が)真面目な人や、あるいは周囲から〈いい人〉あるいは〈やさしい人〉と表現されるような人であればあるほど、精神的に壊れちゃってる人がうじゃうじゃと溢れてしまっている状態だ。人がフリーであるものにじゅうぶん触れないまま(学ばないまま)成長すると、どんどんどんどん心を縛っていくことになる。

もちろん、全部やりたい放題なんだよと教えることはさすがに問題があるけれども、本当は〈禁止〉の領域と〈自由〉の領域を、同時に子どもへ教えていくべきだった。けれども、私の世代とかそれから後の世代(もしくはちょっと前の世代なんか)は、基本的に〈禁止〉しか教えられてこなかったわけで、自分で自由な領域に触れられた人はいいけれど、触れられなかった人は、自分を長い間閉ざすことになるか、ゆがんでねじれてクラッシュしてしまう(か、目の前のもの/ひとを壊してしまう)。

今ここで〈自由〉をさらに封殺してしまったら、今でもじゅうぶんひどい状態なのに、これから先はいったいどうなるんだろう、と思うと、もうこれ以上あんまり想像したくない。現実的な話というのはそれはそれでいいんだけれど、それだけを話しても仕方がない。現実はこうだよ、これは禁止されているんだよ、とばかり言われた子どもは、追いつめられたとき逃げ場がなくなって、それこそ自分で命を絶ってしまうこともある。言ってみれば、〈死ぬな〉という言葉ですら禁止なのだ。〈どうして死ぬの〉という言葉は、生きることが当然として義務化されているのだ。追いつめられた人間にとっては、どちらももはや凶器である。ひとつひとつの禁止が大したことはなくても、ひとつひとつの当然が大したことなくても、それがつもりつもって人を苦しめることがあることを、常に頭に思い描いておかなければならない。

だから、禁止ではなくて、〈自由〉とか〈可能性〉の話をもっとしていかなければいけない。その対象が何であれ、〈自由〉と〈可能性〉の話をすることは、それだけでひとつのメッセージなのだから。

ここまで読んでくださった方に感謝しながら、かなり強引な読み方をしている自分に反省もしつつ、今回のところはここで筆を置きます。ありがとうございました。そして、今回も著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム事務局のみなさま、お疲れ様でした。次回にも期待しております。

(了)