文化審議会著作権分科会「過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会中間整理」に関する意見

執筆者:大久保ゆう(October 29, 2008)

以下は、文化審議会著作権分科会「過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会中間整理」に関する意見募集に対して私個人が送った意見です。詳しくはリンク先の概要をご覧ください。ちなみに、下の括弧内数字に対応するのは、(1)利用円滑化方策と保護期間の在り方との関係について、(2)保護期間の在り方について、(3)今後の議論について、という項目になります。

1−4は中略

5.第4章 議論の整理と今後の方向性

6.
 今回、私は個人としてこの意見を提出するが、一社会人として、デジタルアーカイヴの構築・運営に参加し、また同時にそのアーカイヴされた著作物を個人的に利用し、さらにビジネスで活用する立場にもある。その観点から、貴委員会でなされた中間整理について、意見を申し述べたい。

(1)(3)について
 まず感じたのは、貴委員会が出発点として立てた著作物の「保護」と、それに対する「利用」という観点が、うまく議論のなかで機能していないことだ。議論の過程でもたびたびその問題が現れ、また整理の段でも混乱が見られている。
 もし本当に貴委員会が「いずれの立場を取るべき」という問題でないと考えるならば、これ以上、その対立を深めさせることは、発展的議論に資するものではないのであるから、すぐさまその対立を解消させて、より効果的な議論の出発点を探すべきではなかろうか。
 そもそも既得権益の問題である「保護」と「利用」という対立は、文化や創造という観点からは、本質的なものではない。過去、イギリスにおいて永久コピーライトが否定され、そして著作権なるものは自然権ではないという司法判断が下っている。「文化」というものは、永久的に個人が所有するべきものではないのだ。
 本来、文化とは「共有」されているもので、その上で、その文化の一部を創造した者に報酬あるいは尊敬として一定期間の排他的権利をその個人に対して保障するというのが、道理であるはずだ。
 その「共有」の本質的発言の一例が、人間の「所有欲」ならぬ「共有欲」の発露である。まずは著作者自身が「自分以外の誰かに自分の作品を知ってもらいたい」と感じる欲望。そして受け手の「他人の作品を知りたい」という欲求。さらにその受け手が「この誰かの作品を、自分以外の誰かにも知ってもらいたい」という想い。「文化」を作り上げる上で、誰しも感じるこの本質的な感覚こそ、議論の根本におくべき「自然」であると考えられる。
 そのなかで、創造した人間をどうやって金銭的に「保障」していくか、そして文化を発展させる上でその「共有」がいかに最大化するか、が考えられるべき問題であるはずだ。
 これまでの議論のなかで「保護」の問題が、生きているクリエイタのことを考えようとすること、そして「利用」の問題が、公有の社会的メリットを考えようとしているのも、「共有」と「保障」の関係と対立の有効性を裏付けている。
 小委員会の看板を変えろという気は毛頭ないが、より進んだ議論を展開していくためにも、私は「保護」と「利用」ではなく、「共有」と「保障」の関係とバランスを考えていくことを貴委員会に推奨する。「保護」を前提とした「利用」の問題ではなく、「共有」を前提にした「保障」の問題だ。
 考えるべきなのは、著作権の保護やユーザの利用についてではなく、社会の文化共有と創作者の保障である。著作権者とユーザではなく、社会と創作者のこと、そして文化全体のことを話し合うべきなのだ。
 つまり、「利用の円滑化方策」ではなく、社会がその本質として、その文化を共有するためには、どのような方策が必要であるか、を議論しなければならないということだ。そして、「保護期間のあり方」ではなく、社会がどのように、文化を生み出す創造者を保障していくか、そのあり方を作らなければならない、ということでもあるのだ。
 でなければ、貴委員会が人間の本質的な感覚や社会経済の仕組みと乖離したことを議論していると糾弾されても仕方がないと言えよう。多くの人が疑問を感じながら進めている「著作権保護期間の議論」への違和感は、この点にこそにあるはずだ。なぜならば、そこに「モノ」の議論しかなく、主体である「人」が存在しないからだ。
 そして議論の中心に「人」を立てることができれば、議論が「保護期間後」のことに偏らず、委員会中の意見でも再三求められているように、「保護期間中」の「共有」と「保障」にも踏み込むことができるだろう。それを語り合うための経験が、すでに各種デジタルアーカイヴ(例:青空文庫、ニコニコ動画等)において、すでに得られ始めている。そしてその議論こそが著作権法の議論の本質となるはずだ。

(2)について
 上記のように、「保護」と「利用」ではなく、社会の「共有」と創造者の「保障」という関係性に立脚すれば、「保護期間のあり方」を「著作物」で考えるというおかしさが露わになってくる。保護期間をモノで考えている以上、そこに社会も創造者も存在しない。さらに「死後の著作物」を考えるということは、そこにいるのは「著作権者」(あるいは「著作権継承者」)という社会でも創造者でもない虚像でしかない。
 その虚像への排他的利益を20年増やすということが、社会と創造者にとって、何の妥当性があるというのか。「保護」という言葉で飾れば、そこに守られるべき何かがあるかのように見える。しかし、人を中心とした「共有」と「保障」という本質的な枠組みに変えたとき、その20年のあいだは「共有」もされなければ「保障」もされない。現れるのは虚像への利権にほかならない。
 本当に語るべきなのは、「保護期間後」のことではない。昨今の「共有」のあり方に照らされた、本当の「共有」と「保障」のあり方だ。
 社会にも創造者にも資することのない利益は、必要最低限にすべきだと思われる。よって、客観的に考えれば、国際条約で求められる最低限の保護期間50年が順当である。
 さらに、個人的な心情からも、保護期間の延長には賛成できない。その理由は、公有された、あるいは共有された著作物の受け手として、社会の「子ども」を想定するからである。
 「子ども」は大人と違って、創造物の対価となるはずの金銭を稼ぐことができない。それゆえに、「無料」であることがとても重い意味を持つ。もし創造物が公有・共有されれば、要求される対価は小さくなる。無料になることさえある。そうすれば、大きな財を持たない子どもたちも、自由な形で潤沢な文化に触れることができる。
 公有・共有が社会に資するという意味では、その益を享受する主体として子どもに勝るものはない。その公有・共有の範囲が大きければ大きいほど、今の、そして将来における社会全体の子どもたちにとって資するものとなる。楽しむものとして、知恵として、そして創造の源泉として。
 創造者の死後、その著作権が金銭的権利として多くはその子孫に渡されることを考えると、著作権保護期間の延長問題というのは、「誰の子どもにどんな財を残すのか」という議論にも置き換えることができる。
 そう考えたとき、保護期間の延長は、すなわち著作者本人の子どもに金銭としての財を残すということである。一方で、保護期間を据え置く、もしくは短縮することは、自分の子を含めた社会全体の子どもに対して、文化としての財を残すということだ。
 そのふたつのどちらを支持するかといえば、私の心は後者を選ぶ。
 以上の点により、主観的にも、客観的にも、保護期間の延長は支持できない。
 今後保護期間の議論においては、「共有」と「保障」という側面、そして「誰の子どもにどんな財を残すのか」という点においても、ぜひ議論を深めてほしく思う。