原民喜と『ガリヴァ旅行記』

執筆者:大久保ゆう(January 17, 2006)

 言葉を発することは、それを語る人間とそれがはき出される世界との間にある。語られた一連の言葉は、ある人間がある時に世界と関係を持ったという証拠であり、その痕跡としてのちに残される。翻訳はその誰かが発した言葉というものを、自分の中に取り入れて、もう一度、世界と関連づけようとする行為である。もとの発話者と世界との関係は、自分と世界との関係に捉え直される。そのため、もともとあった自分と世界との関係は、その誰かと世界との関係に影響されて、少なからず変容を迫られる。同時に、自分と世界との関係によって、誰かと世界との関係も自分の身体の中で独自のものとなる。もとの言葉にも、そして翻訳者自身にも変わることを要求するのが、翻訳の一面と言っていいだろう。

 そのような観点で見ると、翻訳において〈完璧〉というものはないのかもしれないし、それを決定する基準もないとすれば、翻訳はすべてある種の〈誤解〉であるとも言えよう。翻訳者でもある世界的な作家の村上春樹は、翻訳を〈誤解の総和〉であるとして、次のような発言をしている。

一つのものを別の形に移し換えるというのは、ありとあらゆる誤解を含んでいるものだし、その誤解が寄り集まって全体としてどのような方向性を持つかというのは、大事なことになってくると思うんですよね。僕は、そういう方向性というのを「偏見」という言葉である程度置き換えちゃっているわけで、偏見という言葉はあまりよくないんだけれど……。いろんな誤解があって、たとえ誤解の総量が少ないにしろ、そのひとつひとつの誤解がそれぞれ違う方向を見てたら、できた翻訳というのは、あまり意味がないと僕は思うんですよ。だから、たとえ偏見のバイアスが強くても、それが総体としてきちっとした一つの方向性さえ指し示していれば、それは僕は、翻訳作品としては優れているというふうに思うんですよ。(村上 2000: 192)

 翻訳者の身体に取り込まれた言葉が、あるひとつの世界として、はっきりとした方向性を持っていること。おそらく翻訳者の迫真性ともいうべきものが、そこにあるかどうか。およそ強い身体性を要求するような翻訳のカテゴリにおいては、そういった尺度をもって、翻訳の成功や失敗を語ることがある。とりわけ詩がそうであるし、翻訳を語るときには、決まって詩が論じられるのも、その身体性と翻訳との関わりにおいてである。しかし、翻訳者の身体について語るのは、何も詩や詩的な作品に限ったことだけでない。〈語り〉が重要視されるようなカテゴリ、たとえば〈再話〉のようなものも、強い身体性を考慮させるものとして取り上げられるべきであろう。再話について佐藤宗子が定義するところによれば、再話というのは「ある原テクストがあるとき、それを意識して、あらたにテクストを文字化する作業、およびその結果生みだされたテクスト」(佐藤 1994: 291)である。一般的に考えて、再話という作業をする際、それはあくまでも〈語り〉であるのだから、個人のつぶやきではない。語りかける相手を強く意識し、そして何を語り、何を語らないのかということをも、考えて取捨選択する。そのため、そのテクストが自分にとってどういうものであるのか、ありありと目標テクストに表現される。この項では、ひとりの人間とひとつのテクストが、どういう関係にあったのかということを中心に、論を進めていきたい。

 

 1951(昭和26)年3月13日午後11時30分、ひとりの男が線路の上に横たわる。北風が強く吹き荒れる中、まもなく隣の駅から列車が走り出る。

 義弟に宛てた遺書の中に、こうあった。

 ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。
 岸を離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。
 今迄発表した作品は一まとめにして折カバンの中に入れておきました。もしも万一、僕の選集でも出ることがあれば、山本健吉と二人で編纂して下さい。[中略]
 では御元気で……。(原 1978α: 332)

 死ぬ直前に仕上げた作品の中に、スウィフト『ガリバー旅行記』の再話があった。別の遺書には、その出版後のことを託す文も含まれていた。

 原民喜、享年45歳――

 民喜は無口な少年であった。同じ中学の友人や教師ですら、民喜のしゃべるところを見たことも聞いたこともなかったという。ただ、最初から寡黙だったというわけではない。小学生の頃の民喜は、人並みにやんちゃで、活溌に遊ぶ子どもであった。広島の山や野原を駆け回り、『カリヴァ旅行記』を読み聞かせられても小人の国に夢をめぐらすばかり。11歳のとき父が胃癌で亡くなるが、その葬式が理解できないほどの幼い子どもであった。しかし、その父の死が次第にわかってゆくにつれて、また兄弟姉妹が多く、母の愛が十分に行き渡らない代わりに、自分をかわいがってくれた母親のような姉がその翌年に病没してのち、民喜は言葉数を急激に減らしていく。

 民喜が中学に入る頃には、何もしゃべらない何も言わない、ひっそりと横にたたずむような、静かな少年となっていた。また声だけでなく、身体も思うように動かせなくなり、行進や体操も満足に出来ない。いたずらな者たちが、はやしたり、突っかかったりして、何とか民喜に声を出させようとするが、依然としてだんまりを続ける。誰の問いかけにも答えないような少年は、当時、兄と一緒に作った手製の同人誌に、「楓」という題の、以下の詩を残している。

我が窓の側に立つおう楓
楓よ、我が心のどん底まで
        汝一人知る。
楓よ我が今日の悲しみを
        汝一人知る。
楓よ我が胸のさびしさを
        汝一人知る。
たゞ楓(オウカイデ)と我のみの
        知る喜びと悲みと
さてはなげきとさびしさと
        心の月に曇り行く
我の心は何なるか
        更にくしきは
我が身なり我はそも
        何なるか楓よ知るや
知らざらん、我また知らず人知らず(原 1978b: 687)

 決して自分の心を他人に打ち明けようとはしない、自分の中に閉じこもるような内的世界を持っている少年の姿が、そこにはある。少年にとって、他者というものは恐怖であり、世界はその恐怖のかたまりであった。のちに民喜は当時の心境を彷彿とさせるような文章を残している。

昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のやうに戦いてゐた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それらが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるへさせた。一人でも人間が僕の目の前にゐたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散つた。僕は人間が滅茶苦茶に怕かつたのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだつた。(原 1978c: 101)

 しかし、民喜本人もそれでよしとしているわけではない。この文章の続きには、「しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのやうに熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか」(原 1978c: 101)とあり、心を閉ざしながらも、それを開こうという意志を持っていたことが語られる。ただ、それを開くきっかけさえあればよかった。そしてついに、中学に入学してから四年経ったある日、ある級友がそのきっかけをつかむことに成功する。

その時、勝手に階段をかけあがる足音がし、その足使いの癖でそれとわかる熊平武二が、いつものようにばたばたと現れざま、立ちはだかってやったぞという風な声をあげる。原民喜が詩稿をよこすで、と得意そうにいう。初耳の名なのであっけにとられて、問いかえしたと思う。上気して喋りつづけるのをまとめるとこんなことであった。下校の道すがらたまたま原民喜を見つけたとたん、思い切ってはじめて声をかけてみたんよ、あんなは慌ててこそこそ小走りになって、前かがみに逃げる、追いついて並んで歩いてしいて声をかけ、こんど出す「少年詩人」のことを話してから、しつこく作品をくれとたのんだら、原民喜がうなづいたんよ。念をおしたら低い声で、うんと返事をしやがった、あんなの声を聞いたのは学校中であしがはじめてじゃ、まずこんなだったろう。(長 1978a: 714)

 こうして世界とかかわるきっかけをつかんだ民喜は、また人並みの道へと戻っていこうとする。兄以外ではじめて交わる文学の同人たち(といっても、人見知りのする民喜が交わるのはそのうちのほんの数人)に影響されながら、この時期、民喜はロシア文学を読み、詩を作り始め、ヴェルレーヌや室生犀星を読んでいく。この交友関係は中学を卒業して慶應義塾大学予科に入学および上京してからも続き、同じく上京してきた熊平や長光太、銭村五郎に山本健吉といった者も加わり、民喜の新しい世界が始まる。まだ人と話すには、友人を介してでないと話せないということもよくあったようだが、自分のことを見つめ直し、進んで自分を変えていこうとしていく。

 友人たちと一緒に様々なところに出入りするようになり、文学の趣味も当時の文学青年らしく、ダダイズムからマルクス主義に傾倒、運動に少なからず参加した時期もあったがそこから離れ、恋にも落ちてみて破れれば自殺未遂を犯す。自分の運動音痴を直そうとダンスを習ったこともあったし、それっぽくアブサンを飲んだり煙草も吸ったりした。

 だが、民喜の世界への本質的な恐怖というものが晴れるわけではない。友人であった長は、当時の民喜が〈列車〉などの車のたぐいを特に怖れていたことを、強い印象を持って語っており(長 1978a)、一般的に見ればまだまだ無口かついつも何かに怯えているような青年であった。

学生の僕は、僕の上にかぶさる世界が今にも崩れ墜ちさうになる幻想によく悩まされた。ときどき僕の神経は擦り切れて、今にも張り裂けるかとおもへた。僕は東京駅の食堂に友人と一緒によくゐた。衰弱した異常なセロフアンのやうな空気が僕の目の前から、その食堂の円天井まで漲つてゐるのだつた。僕の向に友人がゐるといふことも、僕の頭上に円天井があるといふことも、刻々に耐へ難くなり、測り知れないことがらのやうになつてゐた。……おお、僕の今ゐる小さな箱の天井は僕の瞬き一つでも墜落しさうになる。(原 1978l: 283-284)

 このときの原民喜の作品、ダダの抜けた後の作品を、友人の山本健吉は〈原ためいき〉と友人間で称されていたことに触れ、次の作品をその代表として掲げている(山本 1978b)。

   机
何もしない
日は過ぎてゐる
あの山は
いつも遠いい(原 1978z: 48)

 原民喜は予科から大学英文科に進み、やがて卒業を迎える。そして実家の方から見合い結婚の話が持ち上がり、民喜は抵抗しようとするものの、押し切られることとなる。しかし、この結婚相手の貞恵が、民喜にとって大きな意味を持ってくるようになる。

 民喜にはこれといった定職もなく、ただこれまで通り、文学創作を続けていた。民喜の妻となった貞恵は、その文章を見て、たいそう褒める。民喜の文学を信じ、その創作意欲を高めようとする。民喜が小説のあらすじを考え、少し貞恵に漏らすと、

 妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入つたり憧れたりするときの、一番懐かしさうな眼だつた。
「お書きなさい、それはそれはきつといいものが書けます」(原 1978k: 273)

 これまで民喜はそこまでして自分のことを想ってくれる人を、幼い頃に死んだ姉以外に持たなかった。そしてその死とともに失ったはずの世界が、貞恵を通してもう一度甦ってくる。小さな頃から文学を志そうとはしていたが、無職で無名で、まだ確固とした文学世界も築けないような男を信じてくれる妻がいる。民喜にとって世界は依然として恐怖の塊であったが、貞恵に向かって書くことで、文章を書き進むことができた。やがて小さな作品集を自費出版すると、文壇から民喜を評価する者が現れ、『三田文学』へ寄稿するようになる。妻の貞恵が、民喜にとってひとつの世界の出口となったのであった。

 結婚から3年経った1936(昭和11)年からの4年間が、民喜にとってもっとも創作活動が盛んだった時期である。淡いユーモアと抒情を湛えた短く幻想的な作品群をあらわす。それは自分の幼年時代を、民喜の幸せだった世界を、それを再生させた妻に向かって書く行為だった。

 しかし民喜は無口だった。この頃に会った文学者たちは、この民喜の無口を伝説のように書き残している。

昭和十年頃、原君が初めて私の所を訪ねて来た。佐々木基一君の姉さんに当ると後で聞いた婦人と一緒であった。その時から原君は特色のある人で、玄関で案内を請う時も、室へ入って自己紹介をする時も、夫人の言葉にうなずくだけで、自分からは何も言わなかった。夫人が原君のことを皆言った。原稿を書くことの遅さとか、苦労をする様子とか、夫人が静かに話す。原君はだまってそばに坐っている。(伊藤整 1978: 346)

 民喜は常に誰かを通訳として必要とした。自分の世界をわかってくれる解釈者を通じてしか、世界と会話することができなかった。青年時代の時は、熊平ら少数の友人が媒介であったし、結婚してからはこの妻の貞恵が通訳者となった。民喜の文学作品も、無口な彼が、妻を媒介として、世界と自分を繋ごうとした試みであったろう。常に媒介を必要とするのが、民喜の文学の特徴でもあった。

 ちょうど同じ頃、1937(昭和12)年に日中戦争が始まる。世界に暗雲がたれ込めていく中、民喜と貞恵の世界にも、かげりが差してくる。1939(昭和14)年9月10日の朝、貞恵が血を吐く。結核だった。

ある朝、彼は寝床で、隣室にゐる妻がふと哀しげな咳をつづけてゐるのを聞いた。何か絶え入るばかりの心細さが、彼を寝床から跳ね起させた。はじめて視るその血塊は美しい色をしてゐた。それは眼のなかで燃えるやうにおもへた。妻はぐつたりしてゐたが、悲痛に堪へようとする顔が初々しく、うはづつてゐた。妻はむしろ気軽とも思へる位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされてゐたのは彼の方であつたかもしれない。妻のゐなくなつた部屋で、彼はがくんと蹲まり茫然としていた。世界は彼の頭上で裂けて割れたやうだつた。やがて裂けて割れたものに壮烈が突立つてゐた。(原 1978k: 276)

 民喜の創作は力を失い、雑誌に発表する作品の数は次第に少なくなっていく。表現の出口であった妻が弱っていくのと連動するかのように。民喜は妻の入院費を工面し、生活を立てるために、中学校の英語教師として働き始めるが、それも2年ほどしか続かない。

 戦争が深まっていく中、民喜はふたたび『ガリヴァ旅行記』を読んでいる。それは教師としてか、創作のためなのかはわからないが、それはもはや幼い頃のおとぎ話ではなかった。このときの民喜がもっとも深く印象を受けたのは、馬の国の話だった。そこで語られる人間の姿をした野獣ヤフーの愚かさが、今戦争をしている人間の愚かさに重なって、憂鬱な気持ちになる。

 貞恵の病状は悪化していくばかりで、最終的に病院を離れ、自宅療養をすることになった。民喜は友人の紹介で映画会社の嘱託となり、仕事のようで仕事でないようなことをした。しかしついに、1944(昭和)年の9月、貞恵は息を引き取る。民喜はほとんど何も作品を書かなくなっていた。

 妻に先立たれて、民喜はしばらく孤独を感じていたが、リルケの『マルテの手記』をその年に知ったからであろうか、何か死んだのちも妻に語っていくことができるような気がした。それからはただ、追憶の中の妻へ向かって、ひそかに語りかけるような文章を書く日々が、妻との住まいだった千葉を離れ、ふるさとの広島に帰ってからも、静かに続いていた。妻によって繋がれた世界との結びつきをどうにか手放さないように民喜は務めた。

 そんなとき、空から光の魔物が舞い降りる。

 1945(昭和20)年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。

 私は厠にゐたため一命を拾つた。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかつたので、夜明前には服を全部脱いで、久振りに寝巻に着替へて睡つた。それで、起き出した時もパンツ一つであつた。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぷつぷつ難じてゐたが、私は黙つて便所へ這入つた。
 それから何秒後のことかはつきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加へられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思はずうわあと喚き、頭に手をやつて立上つた。嵐のやうなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があつた。その時まで、私はうわあといふ自分の声を、ざあーといふもの音の中にはつきり耳にきき、眼が見えないので悶えてゐた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはつきりして来た。
 それはひどく厭な夢のなかの出来事に似てゐた。最初、私の頭に一撃が加へられ眼が見えなくなつた時、私は自分が斃れてはゐないことを知つた。それから、ひどく面倒なことになつたと思ひ腹立たしかつた。そして、うわあと叫んでゐる自分の声が何だか別人の声のやうに耳にきこえた。しかし、あたりの様子が朧ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立つてゐるやうな気持であつた。たしか、かういふ光景は映画などで見たことがある。濛々と煙る砂塵のむかふに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。壁の脱落した処や、思ひがけない方向から明りが射して来る、畳の飛散つた坐板の上をそろそろ歩いて行くと、[以下略](原 1978a: 509-510: 傍点原文)

 幼年時代に夢想した楓の木も折れ曲がり、炎の手も迫る我が家から民喜らは逃げ出す。民喜が歩いたのは、何か愚かな力によって壊滅させられた広島だった。光りの猛烈な力によって、あちらこちらが燃えている。焼けている。

火ノナカデ
電柱ハ一ツノ蕊ノヤウニ
蝋燭ノヤウニ
モエアガリ トロケ
赤イ一ツノ蕊ノヤウニ
ムカフ岸ノ火ノナカデ
ケサカラ ツギツギニ
ニンゲンノ目ノナカヲオドロキガ
サケンデユク 火ノナカデ
電柱ハ一ツノ蕊ノヤウニ(原 1978x: 20)

 なんとか落ち着けるところまでたどり着いた民喜は、ふと思う。

長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。(原 1978a: 513)

 民喜が幼い頃から怖れていたこと、あの世界が崩れ落ちそうだという幻想が、ほんの個人の行き過ぎた妄想にも思えたことが、実際に起こってしまった。本当に世界が壊れてしまった。だが、それは自分が死ぬという恐怖もともにあったのに、今の自分がこうして生きている。世界が壊れれば、自分も死ぬのが当たり前なのに、死んではいない。なぜか。

今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。(原 1978a: 514)

 ここから、民喜の世界が変容していく。原爆によって、本当に焼き尽くされてしまった世界。民喜の妄想は現実と融合し、そのまま走り出すことになる。一度くっついてしまったこの関係は、この後、民喜からついて離れないようになる。どこにあろうと、この現実の光景が甦るようになる。

水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
 
天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
 
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ(原 1978x: 25-27)

 民喜の中で融合したのは、ただ民喜の妄想だけではない。戦時中に読んでいた『ガリヴァ旅行記』もまた同様であった。8月8日の朝、焼け残った広島を民喜は歩いた。もはや何もかもが焼けてしまった非現実的な光景のただ中に、民喜は一匹の馬を見る。疵もなく、馬は裸で佇んでいる。民喜はその馬に、フウヌイムを読んだ。『ガリヴァ旅行記』に登場する哲人の馬、〈慧駰〉を重ね合わせる。まるでそのフウヌイムが、この人間の愚かな所業を嘆き悲しむかのように、首をうなだれている。そのとき、民喜の中で『ガリヴァ旅行記』もまた現実として取り込まれてしまう。単なるおとぎ話ではなく、架空の話でもなく、この世がそのままヤフーの満ちあふれた世界であり、愚かな世界なのだと。

  ガリヴァの歌
 
必死で逃げてゆくガリヴァにとって
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す
されど後より後より迫まくってくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐えて
生きながらえん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す(原 1978y: 35)

 民喜は、自分のことを原爆ともに墜落してきた人間のように感じるといった。それは、それまで民喜が常に誰かを媒介をせねば書けなかったことから、遂に自分から書くようになった、あるいは誰かの媒介となったことへの変化を表したものでもある。民喜は、この愚かな所業を書き残すこと、そして死した者の叫びを伝えることが、自分の文学であるというふうに思い始める。いや思うというよりは、もっと身体的な、〈突き動かされる〉といった感覚であろう。

 民喜は広島を出てすぐ、その記述を始める。机などの道具もすべて焼尽に帰したため、ただ妻の形見――原爆の光を逃れた嫁入り道具のカバン――を机代わりにして、筆を進めていった。

 そして戦後、広島からふたたび上京し、古い友人の力を借り、また〈書く〉という重さを新しい友人達の活力を支えにして、時には妻への追憶を命の糧としながら、原爆のこと、妻のこと、ガリヴァの愚かしい世界のことを書き続けていく。

 誰かを媒介とせねば生きてはゆけぬ民喜にとって、誰かの、何かの媒介となるということはいかほど重く苦しいことであったろうか。その晩年の作品「鎮魂歌」では媒介となった民喜が、自分を媒介としてわき上がってくる他者の声に押しつぶされそうとしながらも、なお語ろうとする。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」と何度もリフレインするこの作品では、はっきりとした構造はなく、小説・詩といったものは完全に壊れてしまっている。民喜が自分を媒介として書き出そうとする表現体は、嘆きの圧力によって崩壊し、ただ言葉だけがあふれ出る。それを民喜は原爆で死んだ人の声として再生する。〈伊作〉として、〈お絹〉として。

 お絹の声がぷつりと消えた。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを通り越す群衆が僕には僕の影のやうにおもへる。僕は僕を探しまはつてゐるのか。僕は僕に迷はされてゐるのか。僕は伊作ではない。僕はお絹ではない。僕ではない。伊作もお絹も突離された人間なのか。伊作の人生はまだこれから始つたばかりなのだ。お絹にはまだ息子があるのだ。そして僕には、僕には既に何もないのだらうか。僕は僕のなかに何を探し何を迷はうとするのか。
 地球の割れ目か、夢の裂け目なのだらうか。夢の裂け目?……さうだ。僕はたしかにおもひ出せる。僕のなかに浮んで来て僕を引裂きさうな、あの不思議な割れ目を。僕は惨劇の後、何度かあの夢をみてゐる。崩れた庭に残つてゐる青い水を湛へた池の底なしの貌つきを。それは僕のなかにあるやうな気がする。僕がそのなかにあるやうな気もする。それから突然ギヨツとしてしまふ。骨身に沁みるばかりの冷やりとしたものに……。僕は還るところを失つてしまつた人間なのだらうか。……自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのために生きよ。僕は僕のなかに嘆きを生きるのか。
 隣人よ、隣人よ、死んでしまつた隣人たちよ。僕はあの時満潮の水に押流されてゆく人の叫声をきいた。僕は水に飛込んで一人は救ひあげることができた。青ざめた唇の脅えきつた少女は微かに僕に礼を云つて立去つた。押流されてゐる人々の叫びはまだまだ僕の耳にきこえた。僕はしかしもうあのとき水に飛込んで行くことができなかつた。……隣人よ、隣人よ。さうだ、君もまた僕にとつて数時間の隣人だつた。片手片足を光線で捩がれ、もがきもがき土の上に横はつてゐた男よ。僕が僕の指で君の唇に胡瓜の一片を差あたへたとき、君の唇のわななきは、あんな悲しいわななきがこの世にあるのか。……ある。たしかにある。……隣人よ、隣人よ、黒くふくれ上り、赤くひき裂かれた隣人たちよ、そのわななきよ。死悶えて行つた無数の隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、僕にはそれがまだはつきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはつきり見てゐたことだ。
 その一つの死は天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、それも僕にはわからないのだ。僕にはつきりわかるのは、僕がその一つの嘆きにつらぬかれてゐたことだけだ。そして僕は生き残つた。お前は僕の声をきくか。
 僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕はここにゐる。僕はこちら側にゐる。僕はここにゐない。僕は向側にゐる。僕は僕の嘆きを生きる。僕は突離された人間だ。僕は歩いてゐる。僕は還るところを失つた人間だ。僕のまはりを歩いてゐる人間……あれは僕 で は な い。(原 1978d: 130-131)

 民喜を動かすのは怒りではない。死んだ者たちの嘆きと、その者たちに対する祈りである。やがて民喜は、愚かな現世とは離れた、理想の国を夢見るようになる。遠く離れた幼年時代、姉の想い出、妻への追憶――自分の世界が様々なものと敵対し、そして融合し、破壊されてしまう前の幸せな世界を。

生の深みに、……僕は死の重みを背負ひながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の壮厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となつて僕の祈願にゐる。父よ、あなたはゐる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはゐる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはゐる、葡萄棚の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかつた束の間に嘗ての姿をとりもどすかのやうに、みんな初々しく。(原 1978d: 143)

 民喜は、友人たちに「書くことがなくなったら死ぬ」ということを漏らし始める。1950(昭和25)年、静かに死への決意が進み始めたようで、民喜は自分の身辺の整理をし始める。それと併行するように、『ガリバー旅行記』の再話が執筆され始める。現実世界への別れを告げるように、民喜にとっては現実そのものであるガリヴァの世界を描ききろうとする。再話の中では、多くの部分が民喜の手によって削除された。第二部の国の様子を書いた部分、第三部の長い学士院の部分は大幅になくなっている。もっとも民喜にとって重要な第四部も、政治論争について語る部分は大部分がなくなっているが、その中でも戦争の部分、人間の愚かさについて語る部分は残っている。

「今、イギリスとフランスは戦争をしているのです。これはとても長い戦争で、この戦争が終るまでには、百万人のヤーフが殺されるでしょう。」
 すると主人は、一たい国と国とが戦争をするのは、どういう原因によるのか、と尋ねました。そこで、私は次のように説明してやりました。
「戦争の原因ならたくさんありますが、主なものだけを言ってみましょう。まず、王様の野心です。王様は、自分の持っている領地や、人民だけで満足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二番目の原因は政府の人たちが腐っていることです。彼等は自分で政治に失敗しておいて、それをごまかすために、わざと戦争を起すのです。
 そうかとおもえば、ほんのちょっとした意見の食い違いから戦争になります。たとえば肉がパンであるのか、パンが肉であるのかといった問題、口笛を吹くのが、いゝことか悪いことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまった方がよいかとか、上衣の色には何色が一番よいか、黒か白か赤か、或はまた、上衣の仕立ては、長いのがよいか短いのがよいか、汚いのがいゝか、清潔なのがいゝか、そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい争いから、何百万という人間が殺されるのです。しかも、この意見の違いから起る戦争ほど気狂じみてむごたらしいものはありません。
 ときには、二人の王様が、よその国の領土を欲しがって、戦争をはじめる場合もあります。またときには、ある王様が、よその国の王から攻められはすまいかと、取越苦労をして、かえってこちらから戦争をはじめることもあります。相手が強すぎて戦争になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。また、人民が餓えたり病気して国が衰えて乱れている場合には、その国を攻めて行って戦争してもいゝことになっています。
 そこで、軍人という商売が一番立派な商売だとされています。つまり、これは何の罪もない連中を、できるだけたくさん、平気で殺すために、やとわれているヤーフなのです。」
 すると主人は、私の話を開いて、こう言いました。
「なるほど、戦争について、お前の言うことを聞いてみると、お前がいう、その理性の働きというものもよくわかる。だが、それにしても、お前たちのその恥かしい行いは、実際には危険が少い方だろう。お前たちの口は顔に平たくくっついているから、いくら両方が噛み合ってみても、大した傷にはならないし、足の爪も短くて軟かいから、まあこの国のヤーフ一匹で、お前の国のヤーフ十匹ぐらいは追っ払うことができるだろう。だから、戦場で仆れたという死者の数だって、お前は大げさなことを言っているだけだろう。」
 主人がこんな無智なことを言うので、私は思わず首を振って笑いました。私は軍事について少しは知っていましたので、大砲とか、小銃とか、弾丸、火薬、剣、軍艦、それから、攻撃、砲撃、追撃、破壊など、そういう事柄をいろ/\説明してやりました。
「私はわが国の軍隊が、百人からの敵を囲んで、これを一ペんに木っ葉みじんに吹き飛ばしてしまうところも、見たことがあります。また、数百人の人が、船と一しょに吹き上げられるのも見ました。雲の間から死体がバラ/\降って来るのを見て、多くの人は万歳と叫んでいました。」
 こんなふうに私はもっと/\しゃべろうとしていると、主人がいきなり、
「黙れ。」
 と言いました。
「なるほど、ヤーフのことなら、今お前が言ったような、そんな忌まわしいこともやりそうだ。ヤーフの智恵と力が、その悪心と一しょになれば、できることだろう。」
 主人は私の話を聞いて、非常に心が乱され、そして、私の種族を前よりもっと/\嫌うのでした。(原 1978q: 486-488)

 民喜はこの再話を静かに書き終えた後、出版を待つことなく自ら命を絶つ。身の回りの者を片づけ、自分が生涯に書いた原稿をすべてまとめ、必要な人たちに遺書を書き残す。世話になった人たちには黙って面会を乞い、以前よりもほんの少しだけしゃべるようになった言葉をその人たちと交わす。『ガリヴァ旅行記』の文体は壊れていない。子どもに語りかけるような、静謐な文章である。死を決意した人間の静けさを表しているかのように。それでいて、迫真性を伴っている。民喜の訳文は、ひとつひとつに真実味があり、生々しい。スウィフトが旅行記風に書いて真実の記録であるかと見せかけたように、この民喜の『ガリヴァ旅行記』は別の意味で真実の記録である。スウィフトが人間の愚かさを当時の政治状況になぞらえて皮肉ったように、この民喜の『ガリヴァ旅行記』は別の意味で当時の状況になぞらえて皮肉られている。

 民喜は、この『ガリヴァ旅行記』のあとがきの末尾に、こう書いている。

この『ガリバー旅行記』は、これまで広く世界中の人々に親しまれてきた本です。大人にも、子供にも、これくらい、よく読まれてきた本は稀です。これからもまだ多くの人々に読まれてゆくことでしょう。(原 1978β: 370)

 〈まだ〉――この不思議な副詞をつけたところに、民喜の複雑な心境がある。民喜が「いづこの国も、いづこの都市も、ことごとく滅びるまで/悲惨はつづき繰返すでせう」(原 1978y: 36)と詠ずるように、人間がこれから先もずっと愚かであり、多くの人々を巻き込んで殺し合うがために、「戦争と戦争の谷間にみじめな生を営」み、「人間が人間を殺戮することに対する抗議ははたして無力に終る」(原 1978w: 598)のであれば、〈まだ〉読まれなければならないだろう。しかし、同時に人間に反省する心があり、少なくとも「人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくる」(原 1978p: 331)ことを望み、目指そうとするのであれば、戒めとして〈まだ〉読まれていくことだろう。

 生涯において詩や短編しか書かなかった民喜の、唯一の長編である『ガリヴァ旅行記』は、彼の一番長い遺書であった。

 

【参考・引用文献】(ひとまず原民喜関連のみ抜粋)
伊藤整(1978)「原民喜の思い出」『定本原民喜全集 別巻』青土社
遠藤周作(1978a)「原民喜」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978b)「原民喜と夢の少女」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978c)「原民喜のいたずら」『定本原民喜全集 別巻』青土社
長田弘(1978)「解説(晶文社版『ガリバー旅行記』)」『定本原民喜全集 別巻』青土社
小海永二(1978)「少年原民喜」『定本原民喜全集 別巻』青土社
佐々木基一(1978a)「解説」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978b)「原民喜詩集について」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978c)「原爆と作家の自殺」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978d)「死と夢」『定本原民喜全集 別巻』青土社
庄司総一(1978)「無償の愛」『定本原民喜全集 別巻』青土社
青土社編集室(1978)「原民喜年譜」『定本原民喜全集掘拈津攫
長光太(1978a)「解説――三十年・折り折りのこと」『定本原民喜全集機拈津攫
 ――(1978b)「青い針裸身の」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978c)「死の詩人・原民喜」『定本原民喜全集 別巻』青土社
埴谷雄高(1978a)「鎮魂歌のころ」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978b)「原民喜の回想」『定本原民喜全集 別巻』青土社
原民喜(1978a)「夏の花」『定本原民喜全集機拈津攫
 ――(1978b)「「ポギー」三集」『定本原民喜全集機拈津攫
 ――(1978c)「火の唇」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978d)「鎮魂歌」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978e)「永遠のみどり」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978f)「忘れがたみ」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978g)「吾亦紅」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978h)「秋日記」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978i)「雲の裂け目」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978j)「魔のひととき」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978k)「苦しく美しき夏」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978l)「夢と人生」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978m)「遙かな旅」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978n)「美しき死の岸に」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978o)「死のなかの風景」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978p)「心願の国」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――[訳]、スイフト(1978q)「ガリバー旅行記」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978r)「母親について」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978s)「死と愛と孤独」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978t)「ガリヴァ旅行記」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978u)「一匹の馬」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978v)「長崎の鐘」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978w)「戦争について」『定本原民喜全集供拈津攫
 ――(1978x)「原爆小景」『定本原民喜全集掘拈津攫
 ――(1978y)「魔のひととき」『定本原民喜全集掘拈津攫
 ――(1978z)「かげろふ断章」『定本原民喜全集掘拈津攫
 ――(1978α)「遺書」『定本原民喜全集掘拈津攫
 ――(1978β)「『ガリバー旅行記』あとがき」『定本原民喜全集掘拈津攫
藤島宇内(1978a)「解説――原民喜の死と作品」『定本原民喜全集掘拈津攫
 ――(1978b)「原民喜おぼえ書き」『定本原民喜全集 別巻』青土社
丸岡明(1978)「原爆と知識人の死」『定本原民喜全集 別巻』青土社
村上春樹、柴田元幸(2000)『翻訳夜話』文藝春秋
山本健吉(1978a)「詩人の死」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978b)「青春時代の原民喜」『定本原民喜全集 別巻』青土社
 ――(1978c)「幻の花を追う人」『定本原民喜全集 別巻』青土社