著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム 公開トークイベントvol.1 「なぜ、いま期間延長なのか――作品が広まるしくみを問う」の雑感(3)

執筆者:大久保ゆう(March 14, 2007)

◇許諾システムとデータベース

ここ一〇年ほどで急速にデジタル化した社会を目の前にして、瀬尾さんがいうように、「それと50年か70年かという議論は関係無いと思っている。システムは早急に作るべき」というのは、疑いようもなく正しい。しかし、どのようなものをどれくらいの時間で作るか、ということは、福井健策さんの言うように、まだまだ見えてこない。しかし、日本写真著作権協会がすでにデータベース化を終えているというのは、特筆に値するし、そこから学ぶことは多くあるだろう。そして、日本文芸家協会も一括許諾システムの構築に向けて動き始めるということも、評価に値することだと思う。ある作家の特定の作品について、ネット上のアーカイヴは許可するが、商用利用は許可しない、あるいは二次創作の許可不許可など、著作者の細かい指示がそのデータベースによって明らかになるのであれば、利用者の利便は格段に上昇するだろう。

だが、そういったデータベースに載らない人々の処理方法については、まだまだ問題がありそうにもかかわらず、今回の三田さんの応答では、「簡単な裁定制度」であるこということがわかるだけで、具体的なところは何も見えていない。しかし、その「簡単な裁定制度」を作るためには、様々な困難が待ちかまえているような気がしてならない。

それが戦前の本であるとか、古い本で、おそらく著作権も切れているのに、本当に著者が誰だかわからないような本の場合、そういった本が簡単な裁定だけで利用できるのは、出版に携わる人にとっても、一般で利用したい人にとっても、それはありがたい話である。だが、たとえば最近の本で、おそらく著者が存命だが消息がわからない、と思われるものについては、どのような裁定の仕組みが作られるのだろうか。自分の作品が、何の許可もなく使われているという事態は、やはり本人にとっても決して気持ちのいいものではないだろう。簡単に下せる裁定を、ちょっとわからないくらいのどのような本にでも無差別に使えるのであれば、無断出版が横行してしまうことになってしまう。(そんなような事態は起こらないと思うが、とりあえず想像だけしてみる。)

慎重な裁定というのは、無断出版を防ぐためにも、必要なものだと思う。しかし、それを杓子定規に何でもかんでも適用してしまうから、「早稲田文学」のような古いもののアーカイブ化に困るような事態も生じる。

裁定制度を作るに当たっての問題点は、どのような裁定を、どのような対象に、どのような基準で下すか、というところにある。ひとつの基準としては、それが出版されてどのくらいの年数が経過しているか、著者が生きているか死んでいるか、ということも考慮に入れた方がいいだろう。

また現時点では、まず消息を利用者が徹底的に調べなければいけないことになっている。だが、簡単にするというからには、その手順をおそらく省くのであろう。消息がわからない=データベースにない、というところで落ち着けてしまうのかもしれない。

しかし、そのためには、データベースを現在把握している3000人よりも大幅に拡充しなければいけないだろうし(もし徹底的に調べて追加することが可能であれば、そこにない、というだけで、利用者が徹底的に調べた、ということにもなるだろう)、それはおそらく想像を絶するたいへんな作業だ。様々な出版社に協力を請い、それまで出版されたあらゆる本の著者に連絡を取る努力をしなければならないだろう。それが本当に可能かどうか、私にはちょっと想像がつかないし、たとえそうできたとしても、最近の本をデータベースに見つからないからといって、簡単に裁定を下していいのか、というのは、いささか疑問である。

データベースに載っている人だけが許諾によって利用金がもらえて、そこに載っていない人については、裁定によって勝手に許諾が出され、何の金銭も得ることなく、自分の知らないところで本が出版されたりする。それが福井さんのいう「プロじゃない人については著作権をなくしちゃおうってことですか」という不安ではないだろうか。そこではその何らかのデータベースにある種の権威や特権的なものが付与される危険性もある。(しかし、三田さんも「ある一定の年限を経たものについては」という裁定についての留保もつけているので、もしかすると、そのあたりは見えないだけで考慮済みなのかもしれない。)

さらに、ここでは〈翻訳作品〉は除外する、というふうに三田さんは述べているが、この発言はちょっと曖昧である。翻訳作品であるからという理由だけで、裁定の対象にならないのなら、それでは、原著者の著作権が切れているけど翻訳者の著作権についてはちょっとわからないような本(今、私が青空文庫で作業する際に困っている本だ!)については、裁定してくれないのだろうか? 現著者には何の問題もなく、わからないのは日本の翻訳者の著作権なのだから、それを日本の著者と同じように扱ってもいいはずである。このあたり、翻訳権一〇年留保の話題も含めて、翻訳についてはもうちょっと勉強するか、詳しい人を連れてきてしゃべってほしいと思わずにはいられない。

何にせよ、これらのことから考えると、やはり新しい裁定制度をつくるにしても、より広い利用のためには、古いもの(著者の死亡したもの)には比較的ゆるめの裁定を下し、新しいものには今まで通り厳しめの裁定を下し、なおかつ新しいものは今生きている人間が扱っているものなのだから、自らクリエイティブコモンズなどをマークを使って、自分のホームページなり、本そのものの奥付なりに、どのような利用をしてよいのか記していった方が、うまく行くのではないかと思われる。


◇70年が50年だから

今回でも見られた、「世界では著作権が死後70年まで保護されるのに、日本では50年までしか保護しないというなら、私はこのような国で創作をしたくない」という発言だが、私はこの発言にどうも頭をひねってしまう。これは、「70年にしたら創作意欲がわく」ではなくて、「50年だから創作意欲がなくなる」という発言にしか聞こえないのだ。

著作権法は、そもそもポジティブな形でインセンティブを与えるのが目的なのに、なぜかこれはネガティブな効果を与えているのだから。これではまるで、著作権法があるからやる気がなくなるんだ、というような構造に見えなくもない。おそらく、この構造だと、「70年だったら私の創作者としてのプライドは満足する」ということになるかもしれないが、「70年だから創作意欲がわく」ということにはならない。それは果たして、本当にインセンティブの問題を中心に据えて議論として成立するのだろうか?

佐野さんがいうように、「著作権があるから自分は書く、というようなのが、自分の気持ちではもちろんない」というのが普通だと思う。それと上の話を組み合わせてみると、著作権法の存在が、むしろインセンティブを下げている、その法律の存在自体が、今、創作者に対してマイナスに働いている、ということなのだろうか。何ともはや、これこそ、本当に「すべっている」議論なのではないか、と思わずにはいられない。

議論の始まりは、確かに50年と70年の対立の問題だったが、それは始まりから実は「すべっていた」のかもしれない。本当に考えるべきは死後の問題ではなく、生前の問題で、そして現行の著作権法はものすごい欠陥をはらんでいるのではないだろうか。そういったことを含めた著作権法の問題を包括的に考えるフォーラムに今後発展していくのだとしたら、とても面白いと思う。気が付いたら、〈新著作権法を考えるフォーラム〉に名前が変わっていて、欧米に先駆けて、新しい時代の著作権法を、日本が作り上げているかもしれない。


◇法はあらかじめ万能なのではない

「法は万人に開かれているはずなのに、と男は思った。」(カフカ『法の前で』拙訳)

「法は存在するだけで、すでに万能で、正しいことを表現している」というのは、法律の考えとしては割と古い。ドイツ語で法律は "das Gesetz" で、〈定められたもの〉を意味する。つまり、作られた制度に過ぎない。たいてい、うまく働くように作られているはいるのだが、ときどき間違うこともあるし、悪さをすることもある。古びることもあるし、そのやり方にむかつくこともある。だが決して、最初から悪いというものではない。人間の作るものである以上は、良いものを作ればいいだけで、常によくなるよう改良を加えていけばよいだけである。たまに作り直してもよい。

カフカ作品の主人公は、ただ法の前で立ちつくし、入ろうと思えば、いつでも入れたのに、それもしないまま死んでしまう。結局のところ、何もしなければ何も起こらないのだが、何かをすれば、おそらくきっと、多かれ少なかれ、何かが起こる。こうして、何かが始まって、また次につづいて何かが起こっていく――。

ちなみに、私は著作権のプロでも物書きのプロでもないので、そのあたりの自己認識が題名の「雑感」あたりに込められています。翻訳については、翻訳研究者という自己認識なのですが、青空文庫で翻訳をしながら、「ああ編集者がいれば!」といつもいつも思います。それだけに、このフォーラムでは、それぞれ専門のご職業についておられるみなさんが、レベルの高い議論をなさってくれることを、いつも望むものであります。

でも、今回のフォーラムでのプロと非プロに関する発言は、納得できるところがほとんどなんですが、フォーラムがブログやネット上での意見をどのように位置づけていくか、ということを考えた場合、(感想や意見についてのリンク集を作っておられることもあるので)、ちょっとした課題になってくるんじゃないかな、とも思います。著作権法の議論は開かれているのか? 閉じられているのか? 狭義のクリエイターだけでやるのか、それとも国民全員でやるのか? それは〈著作者〉の定義にかかわる、大きな問題です。

そんなわけで、最後になりますが、今回も著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム事務局のみなさま、コーディネータの津田さん、出演者のみなさま、会場のみなさま、どうもお疲れ様でした。次回にも期待しております。ここまでお読みいただいた方に、感謝申しあげます。

(了)