著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム 公開トークイベントvol.2 「『知の創造と共有』からみた著作権保護期間延長問題」の雑感(1)

執筆者:大久保ゆう(April 16, 2007)

2006年4月12日、慶応大学三田キャンパスにて、著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラムによる公開トークイベントが再び行われた。これはそのトークイベントの生中継と、のちのストリーミング配信によって視聴したあとの雑感である。

今回のコーディネータは金正勲さんで、より広い分野の方々から意見を聞きたいという意図からか、ディスカッション参加者も多彩で、マイクロソフトの楠正憲さん、早稲田大学の境真良さん、落語家の三遊亭圓窓さん、そして美術家の椿昇さんの四人。

今回の「『知の創造と共有』からみた著作権保護期間延長問題」ということで、それぞれの分野から共有と創造に対してのエピソードが披露されたが、全体として小さくまとまりすぎて、個々の紹介だけにとどまった感が否めない。そのあたりが影響しているのか、ITmedia の岡田有花さんの記事も、CNetJapan の高瀬徹朗さんの記事も、今までに比べるとずいぶん短く、一ページだけでどうにもふるわない。

しかし、それでは今回のトークイベントから得るものは何もないのだろうか? いやどうしてそんなことはない。単なる拍手や憤慨で終わらせてはならないところが、そこにあるはずである。今回はそのような点に留意しながら、各参加者の発言を追っていくこととする。


◇楠正憲さんの意見より

楠さんはマイクロソフトの最高技術責任者補佐ということで、コンピュータ業界から著作権法について語る立場だ。この雑感はトークイベントのサブテキストとして書いているので、詳しくは実際の映像をご覧いただきたいが、コンピュータ業界の著作権について語られたことについて、ひとつひとつ説明のリンクを貼っていく。

コンピュータ関連のものが著作権で保護され始めたのは、楠さんの言うとおり1980年代からで、とりわけ1981年のアメリカ合衆国における著作権法改正が大きなウェイトを占めてくるだろう。このときの改正で、コンピュータ・プログラムという言葉を定義してその中に盛り込み、第117条でその保護の範囲を定めたのである。

「コンピュータ・プログラム」とは、一定の結果を得るためにコンピュータで直接または間接に使用される、文または命令の集合をいう。(山本隆司・増田雅子共訳『外国著作権法令集 アメリカ編』、第101条)

アメリカでこのような条項が新設されるきっかけとして楠さんが挙げたのが、IBM が開発・販売した System/360 である。それまでは、用途別にコンピュータがまったく異なったシステムおよびコードで作られていた。たとえば、銀行用データベースならそれ専用、印刷機械もそれ専用であるから、そのコンピュータを入れ替えても、まったく何にも作動しない。それはそれだけで、筐体もプログラムもすべてまとめて、一個の道具だったのである。

まったく雑なイメージで考えるとすれば、今私たちが使っている〈OS〉がない状態を考えてほしい。〈Windows〉や〈Mac〉などはなく、表計算をしたければ表計算用のコンピュータを買い、年賀状を作りたければ年賀状用のコンピュータを買うという感じだ。まったく不便きわまりないが、昔はそれが現実だった(し、それでもコンピュータで計算できることにはメリットがあった)。

そういうふうな状態から、はじめてコンピュータそのものとソフトウェアを切り離したのが、この System/360 だった。ソフトウェアさえ入れ替えれば、何にでも使える汎用コンピュータ。この登場によってコンピュータはそれまで以上に売れることとなったが、コンピュータという箱と、それに載せるものを厳密に区別したことで、それまでデータベース用の機械ならその機械そのものをひとつの道具として保護すればよかったものが、複雑な状態へと進んでいったのである。(という説明も特許のことを考えるとすごく雑なのだけれど、ほんのイメージとして。)

さて、その汎用機では、さまざまなソフトウェアが使えるため、他のメーカも互換性のあるコンピュータを作れば、その汎用機で使えるソフトウェアが使えるということになる。それはとてもおいしい話なので、特許料を払ってでも互換機を作りたくなってくる。でもそうやって自分のところよりも安い互換機を作られてばかりでもたまらないので、その牽制として、〈著作権法〉で汎用機のOSなどのプログラムを保護できれば、互換機が作りづらくなるんじゃないか、と考えてもおかしくない。道具から切り離された文章の束であるからこそ、できる技だ。またソフトウェアはソフトウェアで、コンピュータから分離されたことによって、それまでひとつの道具専用であったものが、それをコピーすれば別のコンピュータでも使えるようになるし、それを安く売ってしまうこともできる。それはやはりビジネスとしても困る。

というわけで、その〈載せるもの〉であるプログラムを著作物としてアメリカでは保護することになった。だが、楠さんによると、日本はそれにすぐ追従するというわけではなく、独自路線で行くつもりだったらしい。だが、そうもいかなくなったのだ。当時、日本国内では IBM互換機である日立製作所の HITAC 8000 シリーズや富士通の FACOM M が作られており、それらは正規のIBM製品よりも格安だった。しかし、〈互換〉を売り物にする以上、IBMがどんなコンピュータを作るのか、ということを常に気にしなければいけないということでもある。

そんなときに起こったのが、1982年のいわゆるIBM産業スパイ事件である。そこから外交問題も絡んだり、同年にスペース・インベーダーII事件などもあったり、そんなこんなでいろいろと検討された末、日本でも1985年の著作権法一部改正で〈プログラムの著作権〉の保護が盛り込まれることになった、という案配である。

と、難しい話の補足はこれくらいにして、楠さんの意見を少し検討してみたいと思う。ひとつ気になるのは、次の発言だ。これをコンピュータソフトウェア全般に適用しても、本当に正しいのだろうか?

「コンピュータを扱っている立場で重要なのは、ほとんどのコンテンツは、死後50年、死後70年どころかですね、作ってから5年以内で入手できなくなってるんじゃないか、と思うんですね。」

もちろん、のちに楠さん自身が説明するソフトウェアについては、その意見はかなり正しい。たとえば、表計算ソフトにしろ、ワープロソフトにしろ、OSにしろ、はたまたヘルプファイルの形式にしろ、ヴァージョンアップされていくごとに、そのソフトは別のモノと言ってもいいほどのモノに置き換わっていき、その作られたものはおよそ5年以内に手に入らなくなるし、またその必要も薄れていく。本にとっても同じで、すぐに絶版になるし、手に入らなくなる。

しかし、ソフトウェアに関して考えてみたとき、実用ソフトウェアと、いわゆるゲームのソフトウェアというのは、かなり違っているのではないだろうか? 楠さんの語る〈ソフトウェア〉は常に、OSやらファイル形式やらといった実用プログラムのイメージで、あまりゲームプログラムのイメージが出てこない。もちろんマイクロソフトの人という所属があるからかもしれないのだが、このイメージをそのまま鵜呑みにしてしまう前に、ちょっと立ち止まった方がいいのではないか。

確かにゲームだって、5年もすればそのコンシューマ(ゲーム機)自体が廃れてしまって、そこそこ手に入らなくなる。しかしそれで需要もすべて消えてしまったかといえば、そうではない。この世に古いコンシューマのエミュレータなんてものが存在し、違法ROMなんていうものがあるのも、需要があるにもかかわらず、それを入手することがかなわないというのも、ひとつの理由である。ゲームにおいては、効率や利便性を追求するのではないから、古いプログラムだから価値が劣るというわけでないし、使えないプログラムだというのでもない。

もっと考えてみると、ゲームの中には、結構長命な著作物もある。最近のゲーム機に移植される作品もあるし、任天堂の Wii では、ダウンロードすれば、当時のプログラムがそのままそのゲーム機で遊べてしまう。たとえば、今 Wii でプレイ可能な『邪聖剣ネクロマンサー』というRPGは、1988年に作られたPCエンジン用のゲームで、比較的マイナーなゲーム機のゲームにもかかわらず、9年の長命を誇っている。1983年発売の『ベースボール』(ファミリーコンピュータ)も、24年の時を経て、当時のプログラムそのままで遊ぶことができる。

なお面白いことに、1983年に任天堂から発売されたファミリーコンピュータは、すでにゲーム機本体の特許が消滅しているために、その互換機が制作され、今も販売されているということだ。(任天堂純正の本体も、20年間販売され続けた。)

このような現実を考えると、ゲームというプログラムを考えるのであれば、いわゆる本と同じレベルで議論することは可能なのではないかと思う。本にも実用的な本と、娯楽や芸術の本があるように、プログラムにも実用的なものと、娯楽や芸術のためのものがある。

お互いが違うからといって、まとめるのは難しいだとか、それでも無理矢理、音楽や本の著作権に合わせて一括して強烈に保護するとか、そのような話になるのは、やはり建設的ではない。そうではなく、お互いに共通するところを見いだせば、たとえば本や音楽についても、ソフトウェアと同じように、買って使用し始める時点で、それぞれある種の許諾契約を交わし、著作権の枠外へ向かうことも可能なのではないか、と考えることもできる。あるいはまた、ソフトウェア業界が実用プログラムとゲームプログラムのあいだで、著作権の考え方、使い方に相違があるならば、本についても実用的な本と娯楽や芸術の本とのあいだに、何らかの相違があるべきなのか、などと発展して考えることもできる。

そういうアナロジーによる考え方はいくらでもできて、たとえば楠さんはトークイベントの後半、さまざまな実用的ソフトウェアが、ソースコードのレベルでいろいろのものを共有しているという。それをたとえばいわゆる How to 本で考えてみると、釣りの仕方でもバスケの上達法でも料理本でも編み物の本でも何でもいいのだけれど、言ってみればそれらの本は、〈ソースコードのレベル〉でいろいろのものを共有しているはずだ。料理の本では、基本的な包丁の使い方とか、煮物の作り方とか、下ごしらえの仕方とか、そのへんを共有していないとどうにもならない。(そして、それらのものは、著作物として意識されるよりも、道具として意識されることの方が多いはずだ。)

そのように考えてみると、実用ソフトウェアの世界というのは、(同じビジネスであるはずの)ゲームのプログラムからも、あるいは実用的な本からもかけ離れた、かなり特殊な契約の世界であるとも言えるだろうし、さらに言えば、それら実用的な著作物すべてが、〈道具〉という観念からもかけ離れた場所にあるのだ、とも考えられるかもしれない。さらに、脱構築というわけではないのだけれど、そもそもプログラムと本という分け方で考えるよりも、実用的な著作物か、芸術の著作物か、というふうに分けるという方が、ひょっとすると正しいのかもしれない、なんて考えも可能なのかもしれない。


(2)につづく