処刑の話

In der Strafkolonie

フランツ・カフカ Franz Kafka

大久保ゆう訳




「こいつがまた、いい機械なんです。」
 旅人にそう言って、将校は、もう知りつくしたはずの機械を、あらためてほれぼれと眺めた。
 ただの義理だった。
 旅人は司令官に頼まれて、しぶしぶ来ていた。一人の兵士が、不服従と上官侮辱で処刑されるから、立ち会ってほしい、と。
 この流刑地でも、この処刑に対する関心は低いようだった。
 荒れ果てた深い谷の底に、小さな場所があった。周りの斜面には草が一本も生えていなくて、谷底に将校と旅人と囚人。
 囚人はぼんやりとしていた。大きな口に、汚れるにまかせた顔と髪。
 隣にはもう一人兵士がいて、重そうな鎖を握っていた。囚人の首、手首、足首には小さな鎖がくくりつけられてあって、それぞれをつなげる鎖がまた別にあり、最後に兵士の持つ重い鎖にまとめられていた。
 しかし、囚人は犬のようにおとなしくしていたので、鎖を外して、この谷間の斜面で勝手に走り回らせても、処刑執行の際に口笛さえ吹けば、帰ってくるにちがいなかった。
 旅人はこの機械にあまり関心がなく、囚人の後ろを何とはなしにただぶらぶら歩いていた。
 一方、将校は最後の準備にとりかかっていた。地面にしっかりとりつけられた機械の下にもぐったり、梯子に登って、上の部分を調べたりした。
 機械工にでもまかせればいいことだったが、将校自らが熱心に取り組んでいた。それはこの機械に思い入れがあるからかもしれないし、何か他の人にはまかせられない理由でもあるのかもしれない。
「準備完了!」
 そう言って将校は、ようやく梯子を下りてきた。ひどく疲れた様子で、口を大きく開けて息をついた。薄い婦人用のハンカチを二枚、軍服の衿と首の間に押し込む。
「その軍服、この熱帯ではおつらいでしょうね。」
 旅人が言った。将校は機械のことを聞いてくれると思っていたのだが、
「いかにも。」
 そう返すと、将校は手についた油やグリスを、用意しておいたバケツの水で洗い落として、すぐに言葉を付け加える。
「しかし、この軍服は祖国も同様。祖国を失いたくはありませんので。さぁ、ぜひ、この機械をご覧ください。」
 手を布でぬぐいながら、機械の方を示した。
「手がかかるのはここまでで、あとはみんなこの機械がひとりでにやってくれます。」
 旅人はうなずいて、将校の後ろにつづいた。
 将校は、何も問題が起こらないよう念入りに機械を点検する。
「もちろん故障もします。今日は起こってほしくありませんが、それでも備えは必要です。この機械は、連続十二時間動作しつづけてくれないと困るんです。たとえ故障が起こったとしても、たいていはささいなことで、すぐ修理できるのですけどね。」
 そこまで言うと、将校が「お掛けください。」と、積み上げられた籐椅子の山から、ひとつ引き出して、旅人の前に置いた。
 旅人は断りきれず、しぶしぶ坐った。
 ちょうど前に穴のあるところで、何となく目をそちらに向けた。それほど深くない穴で、掘り出された土がそばに積み上げられてあった。その穴を挟んだちょうど向かいに、機械が設置されていた。
「この機械のことは、もう司令官からお聞きになりましたか?」
 旅人は曖昧に手を振った。
 将校はそれ以上訊ねようとせず、自分で機械のことを説明し始めた。
「この機械は――」
 将校が機械のシャフトをつかんで、体重をあずけた。
「――先の司令官の発明なのです。私は企画立案から完成するまで、すべてに携わりました。しかし、これを発明した栄誉は司令官にこそふさわしい。先の司令官のことはご存じですか? ご存じない。そうですね、この流刑地のメカニズムそのものが、彼の作品だと言っても過言ではありません。友人たる我々は、司令官がお亡くなりになったとき、もう気づいていたのです。この流刑地は、それ自体で一個の完成品であり、後任の司令官にどんな新しい考えがあろうと、この先少なくとも数十年は、このやり方でやっていけるだろう、とね。まったくその通りで、後任の司令官もその点を認めざるをえませんでした。しかし先の司令官をご存じないとは、まったく残念です。さて――」
 将校は一息ついて、
「――おしゃべりがすぎました。目の前にあるこれが、司令官の作った機械です。見ての通り、三つの部分からなっています。使っているうちにみんな、いわゆる通り名というやつで呼ぶようになりましてね。この下のやつが『ベッド』で、上のが『製図屋』、真ん中でぶらぶらしてるのが『馬鍬』と呼ばれています。」
「まぐわ、ですか?」
 旅人はぼうっとしながら、聞き返した。
 強い日射しが、影のない谷に突き刺さる。
 何か考えようとしても、そう簡単にはいかなかった。
 それにひきかえ、将校にはびっくりする。
 この暑さにもかかわらず、式典用の正装を着ているのだ。飾りひもつきの肩章がある、ぴっちりした軍服だ。
 そしてその恰好で、機械について熱弁をふるう。その上、話しながらドライバーで色々いじくっているのだから、たまらない。
 兵士を見ると、旅人と同じような状態だった。囚人の鎖を両手首に巻き付け、手に持ったライフルにもたれかかって、だらりとしている。
 旅人は、無理もない、と思った。
 将校と旅人は外国語で会話していて、兵士と囚人はその言葉を知らなかったからだ。
 しかしそれでも、囚人は将校の話を理解しようとしていたので、とても変な感じに見えた。
 ある意味、しつこいとも言えた。将校が何かを示せば、自分もその方向を向いて、旅人は何か口を挟めば、将校と同じように、旅人をじろりと見るというように。
「いかにも、家畜に引かせて土を耕す、あの『まぐわ』です。まぐわみたいに針がたくさん取り付けられていて、これ全体が、まぐわのように掘る作業をします。本物と違うところは、これは一カ所から動きませんし、非常に精密な掘削をするというところです。実際の作業を見れば早いですね。ここ、この『ベッド』に囚人を寝かせます。――ええと、まず機械のことを説明してから、実際に動かすこととしましょう。その方がわかりよいですからね。――そう、この『製図屋』ですが、歯車がたいへんすり減っておりまして、動作中にきぃきぃ軋むのですよ。そのときにはお互いに会話もできないという有様でして。あいにく部品の調達もむずかしく……それはともかく、先ほども言いましたように、これが『ベッド』です。ぐるぐると綿が回してありますが、理由は後で説明しましょう。この綿の上に、囚人を腹這いに寝かせます。もちろん裸です。ここに両手、ここに両足、ここに首をしばる革ひもがありまして、留め金で固定します。この『ベッド』の頭のあたり、ここですね、腹這いにした囚人の頭がくるあたりに、フェルトの栓があります。色々調節できるようになっていて、これを囚人の口の中に押し込みます。なぜかと申しますと、泣きわめいたり、舌を噛みきったするのを防ぐためなんですよ。もしこれを拒否しようなんてすると、首につけた革ひもがきつくしばってありますから、首の骨が折れてしまうでしょうね。」
「これが、綿ですか。」
 旅人が前にかがんだ。
「ええ、そうなんです。」
 将校は微笑んだ。
「触ってみてください。」
 将校が旅人の手を取って、綿のところへ持っていった。
「この綿は特注なんです。ですから、疑問に思われても仕方ありません。その理由を話すときが、いずれ来るでしょう。」
 旅人は、この機械に少し興味がわいてきた。
 まぶしくないように片手をかざして、機械の上の方を見た。
 大きな機械だった。同じ大きさの箱が上下に並んでいて、上が『製図屋』、下が『ベッド』。どんよりと暗い感じだった。『製図屋』は『ベッド』のだいたい二メートル上に取り付けられていて、そのふたつが、四隅にある真鍮の柱で繋がっていた。日射しで真鍮の柱がぎらぎら光っていて、ふたつの箱の間で、『まぐわ』の針金が宙づりになっていた。
 将校はそれまで旅人が無関心だったことにまったく気がついていなかったが、今、旅人が少しずつ興味を抱き始めているということはわかったようだった。そこで将校は説明をいったんやめて、旅人が機械を眺めるのを邪魔しないようにした。
 囚人が旅人の真似をしようとしたが、手をかざすことができなかった。目だけは自由に動くので、目を細めて、機械を見上げた。
「そこに、人を寝かせるわけですね。」
 旅人が言った。椅子にもたれかかって、脚を組んだ。
「そうです。」
 将校は帽子をくいと押し上げ、手で額の汗をぬぐった。
「さあ続けましょうか。『ベッド』、『製図屋』どちらにもそれぞれバッテリーがついています。『ベッド』は自分用ですが、『製図屋』は『まぐわ』のためです。囚人を固定したら、すぐに『ベッド』の電源を入れます。すると小刻みに震えます。振幅はとても小さくて、上下左右に動きます。病院でこれと似たような機械を見たことがあるかもしれませんね。でも、この『ベッド』はその動きのすべてが精密に計算されています。というのも、『まぐわ』の動きと寸分違わず連動させなければならないからです。そして、この『まぐわ』がまさに処刑執行人となるわけです。」
「どういった処刑をするのでしょうか?」
「えっ、ご存じないのですか!」
 将校は、びっくりするあまり唇を噛んだ。
「申し訳ありません。脈絡のない説明をしてしまったようです。どうかお許しください。以前は常に司令官から説明があったのですが、新しい司令官はその名誉な役目を避けておりまして。せっかく、やんごとない客人が来られているというのに。」
 旅人は、その誉め言葉に謙遜するような素振りを見せたが、将校はなおも続けた。
「やんごとない客人に、我々の処刑方法をお伝えしていないとは、まったくあいつは――」
 将校は、外に出かけた悪態を飲み込んだ。
「いやいや、私は何も知らされてなかったのだから、私の責任ではない。しかし、我々の処刑方法を説明することにかけては、私が最も適任ですよ。なんといっても、ここに――」
 将校が、上着の内ポケットの上を叩いた。
「――先の司令官が書いた、生の図面が入っているのですから。」
「司令官の書いた図面、ですか。」
 旅人が言った。
「すると、その人は一人ですべてを兼ねていたわけですね。兵士であり、裁判官であり、設計者であり、科学者であり、製図者でもあった。」
「いかにも。」
 将校が、感慨深い目をしてうなずいた。それから自分の手を眺め回した。図面に触れるにはまだまだ汚いとでも思ったのか、バケツのところまで行って、もう一度手を洗った。
 終わると、小さな革製の書類入れを取り出した。
「我々の処刑というのは、それほど厳罰なものではありません。囚人に、自分が破った規則を、『まぐわ』でもって身体に刻みつけるのです。この囚人の場合は――」
 将校が、囚人を指差した。
「次の文言を彫り込みます。“上官には敬意を払え!”」
 旅人は、囚人の方に目を向けた。
 囚人は、将校に差されたとき、うつむいて、必死に耳を傾けているように見えた。何をしゃべっているのか知りたいようだ。
 だが、囚人のたらこのような唇が、がっかりしたような感じだったので、どうやら何も分かっていないようだった。
 旅人は、色々と尋ねたいことがあったが、囚人を見て、一言だけ聞いた。
「この人、判決については?」
「何も。」
 将校が言った。すぐさま理由を続けようとしたが、旅人が割って入った。
「自分の判決なのに、ですか?」
「ええ。」
 将校は言葉を切った。その理由を詳しく聞いてほしいというように待ち構えていたが、やがて自分から話しだした。
「知らせる必要などありません。自分の身をもって、知るのですから!」
 旅人は、これ以上しゃべりたくなかった。
 囚人の視線が、自分の方に痛いほど突き刺さってくる。
 お前はこの所業に同意するのか、しないのか、と問われているような気分がした。
 旅人は、椅子から身を乗り出して、質問を続けた。
「でも、この人は、自分が有罪になったということは、知っているんでしょう?」
「それもありません。」
 将校は、旅人に微笑みかけた。変わった質問をどんどんしてほしいという感じだった。
「ない、ですか。」
 旅人が額の汗を押さえた。
「すると、この人は今もまだ、自分の弁明がどれくらい聞き入れられたか知らないわけですね。」
「この男に、弁明の機会は与えられませんでした。」
 将校は、少し離れたところを見ながら、独り言のように言った。こんな当然のことを言って、旅人を恥じ入らせたくないという心遣いをしたようだった。
「しかし、弁明の機会が与えられてしかるべきではないでしょうか。」
 旅人が、椅子から立ち上がった。
 将校は、まずい状態にあることに気がついた。しばらく、機械の説明はできなくなるな、というようなことを考えた。
 そこで将校は、旅人に近づいた。寄り添って、囚人の方を指差した。囚人も自分が今まさに注目されていることに気づいて、立ちつくしてしまった。同時に、兵士の持っていた鎖がぴんと張った。
「事情をお話ししましょう。私は、この流刑地の裁判官を任ぜられております。ほんの若輩者ではありますが、私は先の司令官の時、いずれの刑事事件においても、司令官の補佐をつとめておりまして、さらにこの機械について最も詳しいというのが、その理由です。私は裁判に際して、ある原則を貫いております。“罪は常に疑わしからず。”他の裁判所では、この原則を守ることはできません。裁判官が何人もおりますし、また上級審というものがありますからね。しかし、ここは違います。少なくとも、先の司令官の時代まではそうだったのです。今の司令官は、この裁判のやり方に口出ししたそうにしていますが。でも、これまでに聞き入れたことはありません。これから先もそうあるつもりです。――さて、今回の事情でしたね。至極簡単な事件でした。ある大尉が、今朝告発してきたのです。この男は、従卒として配属されていたのですが、大尉の部屋の前で居眠りをし、仕事を寝過ごしてしまったのです。この男の仕事は、時鐘が鳴ったら起立して、ドアの前で敬礼するというものです。確かに、重い仕事ではありません。ですが、忘れてはならないものです。警備の代わりにもなりますし、いつでも主人の呼びかけに答えられますからね。その大尉は昨晩、きちんと従卒が仕事をしているか確かめてみようと思いました。そこで二時の鐘が鳴ってドアを開けてみると、男は全身を丸めて眠りこけていたのです。大尉は乗馬鞭を持ってきて、男の顔をしたたかに打ちました。すると、男は目覚めて許しを請うと思いきや、あろうことか主人の足をつかみ、揺さぶって大声で叫んだのです。『その鞭を捨てろ、さもないと噛みついてやる!』――これが事件のあらましです。大尉は一時間前、私のところへやって来ました。私は報告を書き留めて、そのまますぐ判決を書き記し、そして男に鎖をつけよと命じました。至極簡単な事件でした。もし手始めに男を召喚して尋問していたら、事態は混乱を極めていたでしょう。まず男は嘘をつくでしょうし、それが嘘であると見破ったとしても、さらに嘘の上塗りをして――うんぬん。実際、ここに男を捉えているのですから、何もさせなければいいのです。――もういいですか? いいかげん時間を食いました。もう処刑を始めなければならないのですが、まだ機械の説明も終わっておりませんし。」
 将校は、旅人を無理矢理椅子に座らせ、自分は機械の近くに行って、説明を再開した。
「ご覧の通り、『まぐわ』はちょうど人の形になっています。これが上半身用の『まぐわ』、これが下半身用の『まぐわ』。頭には細いキリが一本取り付けられているだけです。もうおわかりですね?」
 将校は、旅人に対して親しげに一礼した。いよいよ本題に入れるといわんばかりだった。
 旅人は眉根を寄せて、『まぐわ』を見つめた。今語られた裁判の経過は、納得できるものではなかった。だが、旅人は自分に言い聞かせた。
 何はともあれ、ここは流刑地である。
 だから、別の場所とは違った特別な処置が必要なのであって、軍隊特有のやり方に徹するのも当然である。
 しかし、新しい司令官には期待してもよさそうだった。ゆっくり着実に、新しい裁判の方法を採用しようと考えているようだった。それは将校の石頭では不可能だろう。
 旅人は、考えていたことをそのまま将校に聞いた。
「司令官は、この処刑に列席なさるのでしょうか?」
「わかりませんね。」
 この突然の質問は具合が悪かったらしく、にこやかだった将校の顔がゆがんだ。
「ともかく、我々は急がなければなりません。ですから、まことに残念ですが、説明を省略しなければなりません。しかし、それは明日できますからね、機械を洗浄しているときにでも。――こいつ、とても汚れてしまうんですよ、唯一の欠陥、というやつでして――微に入り細にわたることは、後々。今は必要なことだけ。――囚人が『ベッド』に寝かされて、作動し始めると、身体の上に『まぐわ』が下りてきます。『まぐわ』は自動調節できるようになっていて、尖端がほんの少し、身体に触れるくらいの位置に来ます。調節が終わると、針金がまっすぐぴんと張られます。そしていよいよ、実行されます。素人は、見た感じ罰の違いに気がつかないでしょうね。『まぐわ』が同じように動いてるだけに見えるでしょう。振動しながら、尖端が身体を刺す。合わせて『ベッド』も震える。また、処刑執行がちゃんとなされているのか、どんなときでも確かめられるように、『まぐわ』はガラス製になっています。若干、技術的な困難がありましたが、針をガラスの中に入れることが、試行錯誤の末、可能になりました。苦労したかいがありました。こうやって今、ガラスの中をいつでも見られるのです。どんなふうに、判決が身体に刻み込まれるのか。もっと近づいて針をご覧になりませんか?」
 旅人はゆっくり立ち上がり、『まぐわ』の方へ行って、前屈みになった。
「ご覧ください。たくさんの針が整然と並んでいますが、その中に二種類あるのがわかりますね。これが長い針で、その隣が短い針です。長い針が身体に文字を刻み込んで、短い針は水を吹きつけて、血を洗い流します。文字をいつも鮮明にしておくのです。混ざり合った血と水はそれから、この小さな溝に導かれて、最終的にこの太い溝に集められます。そして管を通って、穴に排出されるわけです。」
 将校は、血と水が流れていく道筋を、指で正確にたどってみせた。できるだけわかりやくするためか、排水管の出口で、手で水を受け止めるような真似をした。
 旅人は顔を上げて、背後を手探りするようにして、椅子に戻ろうとした。が、驚いてそれをやめた。
 あの囚人も、将校の招きに誘われて、同じように『まぐわ』を近いところから観察していたのだ。
 鎖を持っている寝ぼけ眼の兵士を引っ張って、ガラス製の『まぐわ』を身をかがめて上から覗き込んでいた。
 囚人は不安げに、将校と旅人がたった今見ていたものを、さぐるように見ていた。けれども、説明が抜けているので、何が何やらわかっていなかった。
 囚人は色んな方向から、何度も何度も『まぐわ』を見た。
 旅人は、囚人を元の場所に戻そうとした。囚人のこの行動が、処罰の対象となることも考えられるからだった。
 しかし将校は旅人を手で制すと、もう片方の手で穴のわきに積み上げられた土を一塊りつかんで、兵士に向かって投げつけた。
 すると兵士は目をぱちくりさせて、目の前で囚人が大胆な行動に出ていることに気がついた。
 ライフルを地面に落とし、しっかり踏ん張って、囚人を強引に引っ張り戻した。
 囚人は、兵士の前に転げ込むような恰好になって、兵士を見上げながら、身をよじって、かちゃかちゃという鎖の音を立てた。
「立たせろ!」
 将校が叫んだ。旅人の注意がみんな囚人にそそがれていたからだ。
 旅人は身を乗り出して、囚人との間にある『まぐわ』には目もくれず、その向こうの囚人にいったい何が起こるのか、見届けようとしていた。
「丁寧に扱え!」
 将校がもう一度叫んだ。機械を回り込んで囚人のところに行くと、肩の下に手を回して、立ち上がらせようとした。足をじたばたさせるので、兵士の力も借りてようやく立ち上がらせることができた。
 将校が戻ってくると、旅人は告げた。
「なるほど、よくわかりました。」
「まだ最後の説明が残っています。」
 将校は旅人の腕をつかんで、機械の上の方を示した。
「あそこの『製図屋』の中には、歯車がたくさんつまっています。それが『まぐわ』の動きを制御しているのです。そしてそのからくりは、図面に書かれた判決を読みとって、その通りに動くのです。私は、まだ先の司令官の書いた図面を使用しているのです。それはここに。」
 将校が、書類入れから紙を何枚か取り出した。
「しかしあいにく、手にとってご覧いただくことはできません。これは、何物にもかえがたい、私の宝物なのです。どうぞお坐りください。少し離れて、ご覧に入れましょう。まあ、その方が見やすいのですけどね。」
 将校が、一枚目の紙を旅人の前に出した。
 旅人は、いくらか誉め言葉を言おうと考えていた。しかし実際見たのは、迷路のように互いに幾重にも交差した線が、びっしり書き込まれた紙だった。余白を探すのも難しいくらいだった。
「読んでください。」
 将校が言った。
「読めません。」
 旅人が言った。
「はっきりしてるじゃありませんか。」
 将校が言った。
「たいへん、手の込んだ仕事ですね。」
 旅人が遠回しに言った。
「ですが、ボクには読めません。」
「そうですね。」
 将校は笑って、鞄にしまい込んだ。
「これは生徒に見せる習字の見本ではありませんから。囚人は、長い時間をかけて、この字を読まなければなりません。そして最後の一瞬、何が書いてあるのかわかるようになるのです。だからもちろん、簡単な字体であっては困るのです。あっさりと殺しはしません。だいたい平均で十二時間、これを続けます。計算すると、六時間が変わり目にあたります。それまで、本当のたくさんの飾りで、本来の判決文を取り囲むようにしなければなりません。その本来の判決文は、胴体をぐるりと回した、狭い部分にだけ刻み込みます。身体のその他の部分には、装飾を描き込むのです。さて、これでようやく、『まぐわ』の働きと、この機械そのものの価値を、ちゃんと理解できるわけです。さあ、ご覧に入れましょう!」
 将校は梯子に飛び乗って、ハンドルを回した。下に向かって叫ぶ。
「気をつけて、わきへ寄っててください。」
 機械が作動し始めた。
 しかし歯車の軋む音も同時に聞こえてきて、雰囲気を台なしにしていた。
 将校は、この邪魔な歯車に驚いて、拳を振り上げ脅すような真似をした。それから腕を広げて、旅人に謝るような素振りをした。
 将校は梯子を大急ぎで駆け下りて、機械の動作を確認しに来た。
 将校本人にしかわからないことだが、どうやらまだ若干、良好ではないようだった。
 再び将校は梯子をよじ登って、両手で『製図屋』の中をさぐった。それから少しでも早く下りようと、梯子を使う代わりに真鍮の柱をすべり下りた。
 そして騒音の中でもはっきり聞き取れるように、旅人の耳へ向かって、精一杯声を張り上げた。
「どういうふうになるか、わかります? 『まぐわ』が動き出しますね。そして装置が背中に一通り書き終えると、綿の部分が回転して、脇腹が上になるように、ゆっくり転がして、『まぐわ』に新しい場所を提供するわけです。そうこうしているうちに、文字を刻み込まれた部分が、綿の上に転がされます。この綿には特殊な加工がしてあって、すぐに出血が止まるようになっています。そうしたら、その部分もまた新しく文字が書き込めるようになるわけです。ここ、『まぐわ』のふちにぎざぎざしているところがあるでしょう。そこからさらに身体を転がしていくと、傷口に当てられた綿がこのぎざぎざで引き裂かれて、穴の中に捨てられていきます。こうやって『まぐわ』は動いていきます。だから十二時間の間、常に深く深く、文字を彫り続けることができるんですね。始まってから六時間は、苦しみつつも、まだいつもと同じように元気があります。さらに二時間経つと、フェルトの栓を取り除きます。もうその頃には、叫ぶ力もなくなっているからです。この、頭のあたりに、電気保温してある小鉢があって、その中に牛乳で焚いたお粥が入っています。囚人が望めば、舌でさっとすくい上げて食べることができます。みんな間違いなく食べますね。長い間こいつにかかわってますが、食べなかったやつなんて知りません。処刑開始から六時間経つと、食べようという気もなくなります。それから、私はたいがい、そこにしゃがみ込んで、食欲をなくす瞬間というのを観察するんですよ。最後の一口をほとんど飲み込めなくなるんです。ただ口の中で遊ばせるか、穴の中に吐き出します。そのときは、私も顔を引っ込めなければなりません。そのままでいると、顔にかかってしまいますから。しかしまあ、人間はなんと静かになるもんでしょうか、たった六時間ですよ! どんなに間抜けなやつにでも、悟性というやつが芽生えてくるんです。まず目のあたりから始まりまして、だんだん広がっていきます。見てると、『まぐわ』の下に添い寝したいと思ってしまうほどですよ。しかし、それまでです。あとは囚人がただ字を読もうとし始めます。周囲の会話を盗み聞きしようと、口をとがらせることもあります。こんな状態では自分の目で字を読むのも難しいというのは、わかりますよね。さらにここに寝かされる囚人は、傷口から読みとらなければなりません。それは大変面倒な作業です。書き終わるのにここからさらに六時間もかかります。それから『まぐわ』が囚人を串刺しにして、穴に投げ込みます。その先は、血と水と綿が捨てられた、その上で、どさりとぶつかっていきます。そうしたら裁判は終了で、我々、つまり私とあの兵士が、囚人を埋葬するわけです。」
 旅人は、将校の話に耳を傾けつつも、手をポケットの中に突っ込んで、機械の動く様子を眺めていた。
 囚人も見ていたが、さっぱりわかっていなかった。前屈みになって、震えている針を目で追っていた。
 そのとき将校の合図があって、兵士が囚人のシャツとズボンをナイフで切り裂いた。
 衣類がはらりと地面に落ちた。
 囚人は裸を隠そうと、とっさに服へ手を伸ばそうとしたが、兵士が地面から拾い上げてしまった。囚人の身体に残ったぼろ切れも払いのけた。
 将校が機械をひとまず停止させた。
 辺りが静寂に包まれる。
 囚人が『まぐわ』の下に寝かされた。鎖はほどかれ、その代わりに革ひもで固定されることとなる。そのほんの一瞬、囚人は解放感を抱いたようだった。
 『まぐわ』が囚人の身体に合わせて、少し下がった。囚人が痩せていたからだ。
 尖端が触れると、囚人の全身に鳥肌が立った。
 兵士が右手の革ひもを留めている間、囚人はどことはなしに、左手を伸ばした。
 ちょうど、旅人のいる方向だった。
 将校が、目をそらすことなく、かたわらにいる旅人をじっと見据えていた。
 旅人の顔にどのような印象が現れるのか。簡単にそのあらましだけ述べた処刑が、実際には旅人にどう現れるのか。
 将校が知りたそうに見ていた。
 そのとき、手首に結びつけた革ひもが千切れた。兵士が強く引っ張りすぎたためだろう。
 将校は手助けしなければならなかった。
 兵士が千切れた部分を示して訴えるので、将校は反対側へ回った。
 将校が、旅人に顔を向けたまま言った。
「この機械は、とても複雑な仕組みになっていまして、こうやってあちこちが千切れたりとか、壊れたりすることがあるのです。だからといって、それだけで早合点しないでくださいね。革ひもなら、すぐに付け替えができます。とりあえずは鎖で間に合わせましょう。もっとも、微妙な振動がこの右腕のために損なわれる可能性がありますが。――」
 鎖をあてがいながら、話を続ける。
「――現在、機械の維持費がたいへん少なくなっているのです。先の司令官の時には、ただその目的のためだけに潤沢な資金が用意されていて、存分に使えました。ここには倉庫がありまして、そろえられるだけの部品が保管されています。白状しますと、かなり使い込んでしまったことがありまして、今となってはもう昔のことで、それを新しい司令官はまさに今もやっているように吹聴するんです。そんなものは、ただこの昔からあるメカニズムを攻撃するための口実に過ぎません。今、あいつは機械のための資金を自分で管理しておりまして、私が新品の革ひもがほしいと申請すると、千切れたものを証拠品として要求してきまして、さらに新しいものが来るまでに十日もかかるという有様なのです。しかもそれが粗悪な製品ときていて、あんまり役に立たないのです。それに新しいのが来るのを待っている間は、革ひもなしで機械を動かさなくてはならないのです。でも、そんなこと誰も気にかけてくれません。」
 旅人は考えた。
 よその国の事情に大きく介入するとなると、たいへん慎重にならなければならない。
 自分はこの流刑地の住民でもなければ、この流刑地の宗主たる国の国民でもない。
 もしこの処刑を厳しく非難したり、実際に妨害したりしようものなら、こう言われるに違いない。
 このよそ者が、黙ってろ。
 そう言われたら、何も言い返せない。
 言えたとしても、自分はどうも事情がわかっていませんでした、ただ自分は色々なことを見聞するために旅をしているのであって、よその国の裁判制度を変えるためでは決してないのです、などといった弁解めいた言葉くらいだ。
 とはいえ、今回の出来事はそういったことを鑑みても、何か言わなければならないような気になる。この裁判制度が不当で、この処刑が非人道的であることは、疑いようのないことだ。
 それに誰も、こんな旅人が、自分の利益のために言った、と誤解する人もいないだろう。囚人は赤の他人だし、同国人でもないし、同情を抱いているからでもない。
 自分は高官たちの書いた紹介状を持っているし、たいへん手厚く迎えられた。その結果、この処刑に招待もされたわけで、それどころか、この裁判に対して何か意見を求めているように思えるふしさえある。
 ありそうなことだと思う。
 あの司令官が、周知の通り、この裁判制度には不支持であり、この将校に対して敵対心に近いものを抱いているというのは、本当かもしれない。
 そのとき旅人は、将校の怒号を聞いた。
 やっとのことで、囚人の口の中にフェルトの栓を押し込んだのに、囚人はこみ上げる吐き気に我慢できなくなって、目を閉じたまま、栓から外したのだった。
 将校があわてて囚人の頭を持ち上げると、頭を穴に向けようとした。
 が、手遅れだった。
 吐瀉物が機械のわきから、地面の方に流れてきた。
「これもみんな、あの司令官のせいだ!」
 将校が我を忘れて、真鍮の柱をがたがた言わせながら、大声で叫んだ。
「機械をけがされてしまった、これじゃ家畜小屋じゃないか。」
 将校は震える両手を旅人に示して、自分の不幸を伝えようとした。
「私は、何度も、何分も、何時間も、司令官のやつに言ったんだ。処刑の前日には、何も食べされてはいけない、と。だが、今はやりの穏健派というやつは別の意見らしい。司令官つきのご婦人方は、連行される前に甘いものをたらふく喰わせる。これまで臭い魚を食わせてつないできた命に、なぜここで甘いものを食べさせねばならんのだ! 百歩譲ってありうるとしても、ならば私は声を大にして言ってやる、どうして三ヶ月も頼み続けているのに、新しいフェルトひとつ買ってくれないのだ! 誰だって、こんなフェルトをくわえろと言われれば嫌がるさ、なにしろ百人以上の人間がこのフェルトをくわえて死んだんだからな!」
 囚人はうつむいて、気分も落ち着いた様子だった。
 一方そのそばで、兵士は囚人のシャツを雑巾代わりにして、機械を一生懸命きれいにしていた。
 将校が旅人に歩み寄った。
 旅人は予感めいたものがあって、一歩後に下がった。
 将校が旅人の手をつかんで、そばに引き寄せた。
「あなたを見込んで、ちょっと話をしたいのですが、よろしいですか?」
「ええ。」
 旅人は目を伏せつつ、話に耳を傾けた。
「この裁判制度と処刑に、今回立ち会うことができたことを、旅人さん、あなたは感謝すべきですよ。しかし、この地にはもはや、高らかに支持を表明する人はいないものと思われます。私が唯一の代表者かつ、先の司令官の意志を継ぐ唯一の人間であるのです。この裁判制度をこれ以上広めようなどとは、考えない方がいいでしょう。今は、ここの制度と機械を維持するだけで精一杯なのです。先の司令官が存命中には、この地にも支持者がたくさんいました。彼の思想的側面は、私もいくらか受け継いでいるつもりなのですが、いかんせん、私には権力というものがありません。その結果、支持する者がいても、私に力がないために、彼らを守ってやることができない。だから大勢いても、みんなそのことを口に出さないのです。たとえば今日、処刑執行の当日に、喫茶店に行って色々話を聞いて回ってご覧なさい。みんな曖昧なことを言うばかりですよ。みんな以前は大声で支持していたのに、現在の司令官の下、新しい考えがはやっている現在では、まったく役に立ちません。これをどう思いますか? ああいう司令官と、それを意のままにするご婦人方のせいで、このような一個の生涯をかけた作品が――」
 将校が機械に手をやった。
「――朽ち果てようとしているのです! こんなことが、認められてよいのでしょうか! あなたは外国人ですが、ただ数日この島に滞在しているだけですが、それでも! 事は一刻を争います。私の司法権に対して、何らかの策を講じられようとしています。もうすでに、司令部で審議が行われました。私に何も意見を求めることなく、です。それどころか、あなたが今日ここにやってこられたことも、今までのことを考えると、たいへん意味深長なものに思われます。自分でやるのは怖いから、あなたのようなよそ者を送ってきたのです。――以前は、こんなさみしい処刑ではなかった! 執行の前日ともなると、谷中がもう人でいっぱいで、処刑を見物するためだけに、みんなしてやってきたものです。朝早くに、司令官はご婦人方をはべらせてお越しになっていました。ファンファーレがなると、この流刑地全体に緊張が走ります。私が、準備完了を報告すると、身分の高い方々が――つまり、高官は誰もが欠席するわけにはいかないわけで――機械の周りに皆さんもう着席なさっているわけです。あそこに積み重ねられた籐の肘掛け椅子が、当時の名残なんです。機械はぴかぴかに光って、設置されているのですが、ほぼ毎回、処刑のたびに新しい部品を使っていました。大勢の目の前で――見物人みんなつま先立ちしなければならないくらい、谷にひしめいていて――囚人が、司令官じきじきに『まぐわ』の下に寝かされます。見張りは、今でこそ一兵卒の役目でありますが、当時は私、今は裁判官の私がやっていた仕事でして、たいへん光栄なことでありました。そしていよいよ、処刑が始まる! 機械の動作を妨げる不協和音はありません。もはや処刑を見ようとはせず、目をつむって砂の上に寝転がる人もいましたよ。誰もが、今まさに正義が行われているのだと、知っておりました。静寂の中、ただ囚人のため息ばかりが聞こえてきます。フェルトの栓でこもった感じになっていましたが、こんにち、あの機械では、息がつまって、のどの奥から絞り出しているような、あの感慨深いため息はもはや出せないでしょうね。あの頃は、文字を刻む針に腐食液をしたたらせていていました。今ではもう使用が許されてはいません。さて、開始から六時間経ちますと! みんな近くで見たいと言いますが、全員許可するわけにはまいりません。司令官は思慮深いお方でして、とりわけ子どもの願いを聞き入れるべきだとおっしゃりました。私は、職務上いつも最前列に坐ることができました。あるときには、両脇に子どもをかかえながら、しゃがんで見物したこともあります。囚人の苦しみに引きつった顔が、救済され、歓喜に満ちていく様を、大勢の群衆が眺めるのです。ついに遂げられ、そして去っていく正義の光が、我々を煌々と照らす! この一瞬なのだ! 友よ!」
 将校は、まったく周りが見えなくなっていた。
 旅人を抱きしめて、肩に顔をうずめた。
 旅人は困り果てて、何をどうしてよいやら、とりあえず肩のところにいる将校に目を向けた。
 兵士はもう機械の掃除を終えて、お粥を缶から出して小鉢の中にそそいだ。
 囚人はそれに気がつくと、もうすっかり元気になったようで、すぐに舌をのばしてお粥を食べようとした。
 兵士はまたもや囚人を押し止めた。お粥はもっと後になってからと決まっていたからだった。だが、あろうことに、兵士自身が汚れた手をつきだして、空腹の囚人の目の前で、お粥を食べ始めた。
 将校は、まもなく我に返った。
「その、あなたを感化しようとか、そういうことではないのです。わかってます、無理ですよね、今、これだけで納得していただこうなんて。それはそうと、機械はいぜん動いておりますし、たとえこいつだけでも、ありさえすれば、動くのです。谷の中にぽつんとこの機械が置いてあるだけでも、こいつは自分で動くのです。ちゃんと最後に死体が、この世のものとは思えないほど安らかに穴へ落ちていくのです。過ぎし日のように、大群衆が穴の周りにひしめきあっていなくとも。昔はね、穴の周りに頑丈な柵を設けなければならなかったんですよ、もうとっくに取り払われましたけどね。」
 旅人は顔を背けて、あてもなく辺りを見回した。
 荒涼とした谷に見入っていると思ったのか、将校は旅人の手をつかんで、注意を自分の方に向けようとした。
「この屈辱が、おわかりになりますか?」
 旅人は何も言わなかった。
 将校も無言だった。両足を広げ、両手を腰に添えて、地面を見ながら、静かに立っていた。
 それから、旅人をはげますように微笑んだ。
「昨日、私はあなたのそばにいたんですよ。ちょうど司令官が処刑を見学してほしいとお願いしたときです。私にもその言葉が聞こえました。司令官のことはよく知っていますから、すぐにわかりました。どういうもくろみで、あなたにお願いしたのかが。司令官の力は絶大で、私に対して断固とした処置を執ることもできるのですが、今まで、あえてしようとはしませんでした。そこでおあつらえ向きに、あなたがやってきて、名のある外国人の判断を仰げば、と思ったのでしょう。計算高い男です。あなたはここに来てまだ二日です。昔の司令官のことや、彼の思想哲学を知らないし、あなたは西方の国の常識というやつに慣らされている。もしかすると、あなたは死刑廃止論者というあれかもしれないし、特にこのような機械で死刑執行するとなれば、なおさらです。それに悲しいかな、あなたにはこの裁判は一般の人に公開されない秘密裁判と映るでしょうし、処刑に使うのはこんなおんぼろの機械ときている。――そうして、今、処刑を目の当たりにすれば、誰だって異常だと思う――と司令官は考えたに違いありません。そうすれば、あなたもこの裁判制度を不当なものと考えるでしょう? 不当なものと考えたら、あなたは――ええと、これは司令官はこう考えるだろう、ということでして――あなたは捨ててはおけないと思うでしょう。今まで磨き上げた自分の信念というやつを頼りにして。けれども、あなたはまた、様々な文化の独自性を色々ご覧になってきたわけで、それを尊重しつつ学んでこられた。ですから、自分の国にいるときのように、真っ正面からこの裁判制度について、何かを主張するということはないでしょう。しかし、司令官にしても、そんなことはまったく必要としていないんです。ちょっとだけ、ついうっかり何かを言ってしまうだけでいいんです。それがあなたの考えと違っていてもかまいません。ただ、その言葉が表面上、司令官の意図にかなうようなものであれば、それで。そのために、司令官はあの手この手を使って、あなたを色々質問責めにするでしょう。そうに違いありません。ご婦人方があなたを囲んで、耳をとんがらせているはずです。あなたがこんなことを言ったとしましょう。『ボクの国は、こんな裁判制度ではありません。』あるいは、『ボクの国では、判決の前に容疑者を尋問します。』とか、『ボクの国には、死刑とは違う刑罰があります。』とか、『ボクの国で拷問があったのは、ずいぶん昔の頃だけでした。』こういった発言はどれも、普通のものですよね、そして、あなたにとってもごく普通の意見なわけで、なんとなく言っただけで、別に私の裁判制度を非難しようと思ってした意見ではないでしょう。しかし、司令官はそうとは受け取りません。その光景がありありと目に浮かびますよ。善良な司令官様は、ただちに席を立って、バルコニーに急ぎます。ご婦人方もぞろぞろ続いて、ああ、バルコニーに出て行きます。そして司令官のあの声が、ご婦人方が『雷の声』と呼ぶあの声が、聞こえてくるのです。――『今、日の沈む方の国からお越しになっている大先生は、今回、全世界の国の裁判制度を研究することを、旅の目的になさっておる。そして、先ほど言われたことによると、この島の古くから続く制度は、非人道的であるらしい。このような権威のあるお方がこう言われるからには、もはや、この制度を容認しておくことは、これ以上できないことと思われる。本日をもって、私はここに宣言する――うんぬん。』こんな演説を聞いて、あなたはそんなこと言ってないと、あの裁判制度が非人道的だとは言ってないと、横やりを入れたくなるでしょう。むしろ、あなたはたいへん分別のあるお方ですから、あの機械が非常に人間的であり、人間にとってたいへんふさわしいものであると感心しておられるのではないでしょうか。――でも、もう遅すぎるのです。バルコニーにはもうご婦人方でいっぱいで、出て行くことができない。はっとして、大声で叫ぼうとするけれど、ご婦人方の手があなたの口に伸びて、塞いでしまう。――こうして、私と先の司令官がなした一個の作品が、滅びていくのです。」
 旅人はこみ上げる笑いを我慢した。とても難しいことになったと思っていたが、その実、それはたいへん簡単なことだったからだ。
 旅人がやんわりと告げた。
「あなたは、ボクの力を過大評価しておられます。司令官は紹介状を読んでいますから、知っていると思いますが、ボクは司法の専門家ではありません。ボクが何か意見を表明したところで、それは単なる民間人の意見であり、どこかその辺の人の意見よりも価値がありませんし、いずれにせよ、司令官の意見に比べれば、何の意味もありません。この流刑地では、聞くところによると、彼の言うことは何でも正しいのでしょう? この制度が、彼の裁量次第だというのなら、近い将来、この制度にも終わりが来ても不思議ではありません。ボクが何をしたところで、どうにもならないことです。」
 将校はわかってくれただろうか?
 いいや、わかっていなかった。
 将校はぶんぶんと首を振って、囚人と兵士の方へすばやく振り返った。
 兵士は縮み上がって、お粥を吹き出した。
 将校が旅人に近づいたが、旅人の顔を見ず、その上着のあたりをぼんやりと見つめて、声をひそめて言った。
「あなたは司令官をご存じない。あなたは我々とは違う立場に――こんな表現で申し訳ありませんが――つまり、無害な人間なのです。ですから、あなたの影響力は、どんなに高く見積もってもあまりあるほどです。私は運がいいと思ったんです。あなたがひとりで、処刑に立ち会うと言うことを聞きました。司令官の命令は私にもやってきました。今、私は、私自身の信ずるがゆえに、それを逆手に取ろうと思うのです。あなたは先入観や偏見に騙されることなく、――また、この処刑に興味を持っていなければ、それを断ることだってできたのに――あなたは私の説明に耳を傾けてくださり、この機械をご覧になって、今にも処刑を見学なさろうとしている。あなたの考えは、もうしっかり決まっているのだと思います。まだはっきりしないところもあるでしょうが、処刑を見れば、それも解消されることでしょう。折り入って、あなたにお願いしたいことがあるのです。司令官と闘うこの私を、助けてはくださいませんか!」
 旅人は、将校にこれ以上話をさせる気はなかった。
「どうして、ボクにそんなことができるのです。」
 きっぱりと言った。
「無理です。ボクはあなたに対して害を与えられないし、また同じように、役に立つこともできません。」
「できます。」
 将校が言った。
 旅人は、将校が力強く拳を握ったのを見て、かすかな不安が心によぎった。
「あなたには、できるのです。」
 追いつめられたように、言葉を繰り返した。
「私にはある計画があります。それは成功するはずのものです。あなたは、自分は力不足だと思っておられますが、私には、十分だとわかるのです。たとえあなたの言うように力不足だったとしても、この制度を守っていくためには、何であれやってみることが大事なのではないでしょうか。とにかくこの計画を聞いてください。それを実行するためにはまず、今日あなたがこの流刑地で、この制度に対して何か発言をするということを、できる限り差し控えていただくことが必要なのです。直接そのことを聞かれない限り、黙っていてください。もし答えるにしても、素っ気なく、ごまかしたような感じにしてください。そうすれば、人はみんな、これはあなたに聞いてはいけないことなんだ、聞いたら不機嫌になってしまうぞ、答えを強要しようものなら、いきなり怒って口論になってしまうかもしれない、というふうに解釈するでしょう。別に、嘘をつけと言っているわけではありません。突き放したように答えてくれれば、それだけでいいのです。たとえば、『ええ、処刑を見ましたけど。』とか『ええ、説明はみんな聞きましたけど。』とか。それだけ言って、それ以上は何も言わないでください。あなたが機嫌を損ねているということが、みんなわかるはずです。それが、いいきっかけとなるのです。司令官の意図とは異なりますけどね。もちろん、司令官はその言葉を完全に誤解して、自分のいいように解釈するでしょう。この計画は、そこのところが大事なんですよ。実は明日、司令部で司令官を議長とする全体会議があって、高官が全員出席の上で開かれます。このような会議は基本的に見世物でして、司令官も当然それを理解しています。傍聴席がありまして、そこはいつも傍聴人でひしめき合っています。私は職務上、審議参加を義務づけられておりますが、それが嫌で嫌で仕方ないのです。あなたは、どんなことがあっても、その会議に出席してくれと頼まれることでしょう。今日、あなたが私の計画通りにふるまってくだされば、それこそ、是非出席してほしいというふうになります。万が一、何かわけのわからない理由があって、あなたが招かれなかったとしたら、自分から出席したい旨を伝えてください。そうすれば、絶対に出席が許可されるはずです。あなたは明日、ご婦人方と一緒に、司令官専用のボックス席に座ると思います。司令官は議場から何度も上のボックス席に目をやって、あなたがちゃんと来ているかどうか確認するでしょう。いくつか、ばかばかしくてどうでもいいような、ただ傍聴人を意識しただけの議題が話し合わせます。――たいがいは埠頭建設の件で、いつもその件を話し合ってばかりだ! ……ともかく、裁判制度に話が移ってくるでしょう。もし司令官から話がなかったり、ぞんざいに話が終わったりすれば、私が代わってそれを議題に乗せましょう。私は起立して、本日の処刑報告を申し述べます。なるべく簡単な報告で済ませるつもりです。こういった報告は、普通こういう会議ではしないものなのですが、今回はそれが必要なのです。司令官はいつものように私に礼を述べて、にっこり微笑むでしょう。そこで司令官は、居ても立ってもいられないようになって、ここぞとばかりに話し始めるでしょう。『ただいま、』とかそんな感じの切り出しになるんでしょう。『処刑に関する報告がなされました。それに際して、付け加えておきたいことがあります。それはちょうど、この処刑には偉大な学者が列席しておられたということです。たいへん光栄なことに、現在この方がこの地にご滞在いただいているということは、みなさんご存じですね。そしてたいへんありがたいことに、この本日の会議にも出席していただいております。そこで、この大先生にひとつ、この議題に関して、この古くから続く処刑と裁判のやり方に関して、ご感想を頂戴しようではありませんか。』当然のように、会場全体が拍手喝采で、異議も出ません。私が率先して賛成します。司令官はあなたに礼をして、こう言います。『では、一同の名において、私が質問をしましょう。』あなたは手すりに近寄って、両手を会場のみんなに見えるように置いてください。でないと、ご婦人方に握られて、指でもてあそばれたりしかねませんからね。――で、いよいよあなたに発言権が回ってきます。この瞬間に至るまでの間、高まる緊張をどうすればよいのか、私にはまったくわかりません。あなたは、遠慮せず何でもおっしゃってください。真実をそのまま声を大にして伝えればいいのです。手すりから身を乗り出して、叫んでください。そうです、司令官に向かって、あなたの言葉を大声で告げるのです。揺るぎない信念を伝えるのです。しかし、もしかすると、それはあなたはそんな性分ではないかもしれませんし、あなたの国では、もうちょっと違った主張の仕方というものがあるのかもしれませんが、いいでしょう、そのやり方でもまったく構いません。起立して、ふたこと、みこと、発言してもいいですし、下の役人たちにやっと聞こえるくらいのささやき声でも構いません、処刑に対する人々の無関心や、歯車のきしみ、千切れた革ひもやむかつくフェルトについてはまったく触れなくても結構です。いや、その後は私がみんな引き継ぎましょう。見ていてください、司令官が、傍聴人の前にはいられなくなって逃げ出してしまうような演説をぶってやりますよ。あるいは、やりこめてやって、ついには司令官が私の下にひざまずくような事態にしてやりましょう。――これが私の計画です。そこで、あなたにこの計画を手伝ってほしいのです。当然、やってくださいますよね。いやいや、しなければならないはずです。」
 将校は旅人の両腕をとって、息を切らしながらまっすぐに見つめた。話の最後の方はほとんど叫んでいるような感じで、兵士も囚人もどういう意味かわからないにせよ、何事かと思っただろう。
 二人は食べるのをとりあえずやめて、向かい側の旅人を見た。
 どう返事をするか、旅人にははっきりしていた。
 旅人は色んな人生経験をしてきた。それは、ここで考えを変えてしまうほど軽いものではなかった。
 旅人はきわめて素直で、何事も恐れない性格だった。
 しかし、さすがの旅人も兵士と囚人に目を向けると、ほんの一瞬ためらわざるをえなかった。
 だが、ついに旅人は、言わなければならないことを言った。
「お断りします。」
 将校が目をぱちくりさせたが、その先は旅人を見据えたままだった。
「その理由を説明しましょうか?」
 旅人が聞くと、将校は無言でうなずいた。
「ボクは、この制度には反対です。あなたはボクを見込んで話をしてくれましたが、その好意を踏みにじるつもりはありません。そうではなく、疑問に思うところがあるのです。果たしてボクに、この制度に何か意見を言うような権利があるのかどうか。そして何か言って、それが受け入れられる可能性が少しでもあるのかどうか。その際、誰に向かって言えばいいのか。それははっきりしてましたね、司令官でした。――あなたの話を聞いて、ボクの心ははっきりしました。ですが、あなたの意見を、ボクが受けいれたというわけでは決してありません。確かに、あなたのまっすぐな気持ちには心打たれましたが、だからといって、ボクの意見が変わるわけではありません。」
 将校は黙ったまま、機械の方を向いて立ちつくしていた。真鍮の柱をつかみ、上体を逸らして、『製図屋』を見上げた。機械が正常かどうか、確かめるように。
 兵士と囚人は互いに親しくなったようだった。囚人は革ひもで縛られていたので、動くのもむずかしかったが、何とか兵士に合図をした。
 兵士は身をかがめて、囚人のささやき声を聞くと、うんうんとうなずいた。
 旅人は将校の背後に近寄って、声をかけた。
「ボクがこれからどうするのか、お知らせしておきます。ボクは、この制度について自分の考えを司令官にきちんと伝えます。ですが、会議の場ではなく、二人きりになって言うつもりです。ボクはここに長くはとどまりません。ですから、会議に出て発言を求められることもないでしょう。明日の朝、船で出発します。あるいは少なくとも、乗船はします。」
 将校の耳には、何も聞こえていないように思えた。
「つまり、あなたは、この制度が納得いかないのですね。」
 将校は、ひとりごちるように言って、微笑んだ。老人が子どもの戯言に微笑むような、微笑みで本心を隠しておくような、そんな感じだった。
「ついに、時が来たのか。」
 そう言って将校は、旅人を見つめた。その瞳は明るかったが、何か急ぐようで、何か求めるような、何か訴えかけるようなものがあった。
「何の時、ですか?」
 旅人がいぶかしげに尋ねたが、将校は何ひとつ答えなかった。
「解放してやる。」
 将校が、囚人に現地の言葉で伝えた。
 囚人ははじめ、何を言っているかわからないようだった。
「もう、自由なんだ、お前は。」
 将校が言った。
 囚人の顔に、ようやく生気がよみがえってきた。
 本当だろうか? ただ単に将校の気まぐれで、後になって違ったとか言われないだろうか? あのよそ者の旅人が働きかけて、放免にしてくれたのだろうか? これはいったいどういうことだ?
 囚人の顔は、そんなことを問いたげだった。
 といっても、それは一瞬のことだった。囚人はずっと、解放されたい一心でいたから、『まぐわ』に触れないようにしながら、出たい出たいともがき始めた。
「革ひもが千切れる!」
 将校が叫んだ。
「じっとしてろ! すぐにほどいてやる!」
 将校は兵士に合図をして、二人して革ひもをほどき始めた。
 囚人は声にならないような笑い声をあげながら、左側の将校に顔をやったり、右の兵士にやったり、また旅人の方へ向くことも忘れなかった。
「引きずり出せ。」
 将校が兵士に命令した。
 このとき『まぐわ』に囚人の身体が触れないよう、少し注意を払わなければならなかった。
 しかし、囚人が焦ったため、背中に小さな引っ掻き傷ができてしまった。
 それが終わると、将校は囚人に興味がなくなったようで、旅人の方へやって来ると、再び小さな革の書類入れを取り出した。
 中の紙をぺらぺらとめくって、自分の探している紙を見つけると、それを旅人の前に差し出した。
「読んでください。」
 将校が言った。
「読めません。」
 旅人が言った。
「前にも言いましたが、ボクには読めません。」
「じっと、つぶさにご覧ください。」
 将校はそう言うと、旅人の隣へ行って、一緒に読もうとした。
 やっぱり読めないことがわかると、指を紙からかなり離れたところに持ってきて、できるだけ触れないよう気をつけながら、旅人の助けになるよう文字の形に指を動かした。
 旅人は、将校の気持ちに添えるよう、できるだけ読んでみようと努力をしたが、どうしても読めなかった。
 すると将校は字を一文字ずつ読み始めて、最後に全部つなげて文にした。
「“正義をなせ!”と書いてあります。」
 将校は言った。
「もう、読めますね。」
 旅人がよく見ようと顔を近づけると、将校は触れるのをおそれて紙をさらに遠ざけた。
 旅人は何も言わなかったが、依然として読めないままでいることは、誰の目にも明らかだった。
「“正義をなせ!”と書いてあるのです。」
 将校が繰り返した。
「そうかもしれません。」
 旅人が言った。
「あなたがそう言うのなら、そう書いてあるのでしょう。」
「それで結構。」
 将校は多少なり満足すると、紙を持って梯子を登った。
 そして、紙をそっと『製図屋』の中に設置した。
 それから、痛んだ歯車を直そうと、たいへん骨の折れる仕事に取り組んだ。このからくり全体を取り扱わなければならないので、将校の頭がすっぽり『製図屋』の中に入って消えてしまうことも幾度かあった。そこまでつぶさにそれぞれの歯車を点検しなければならなかった。
 旅人はずっと、下からその作業を見守っていたが、首が痛くなった。強い日射しのせいで、目も痛くなった。
 兵士と囚人は自分たちのことで精一杯だった。囚人のシャツとズボンが穴の中に落ちていたので、兵士が銃剣の先を使って引っ張り上げた。シャツは汚れ放題になっていて、囚人がバケツの水で洗った。
 囚人がシャツとズボンに着替え終わると、兵士と囚人は大声で笑った。
 服の後ろ側が、ずたずたに切れていたからだ。
 囚人は兵士を楽しませるのが義務であるとでも考えているのか、ぼろぼろになった服のまま、兵士の周りをぐるぐる回った。
 兵士は地面にしゃがみ込んで、膝を打って笑った。これでも、二人がいることを気遣って、抑え気味にしていた。
 梯子の上の将校は、ようやく修理を終えると、微笑みながら、周囲をぐるりと見渡した。ひとつひとつを見落とさないように。
 上がっていた『製図屋』の蓋を、ぱたんと閉めた。
 梯子を下りると、向こう側へ行って、穴の中を見た。それから囚人の方を見て、服を取り戻したのを確かめると、満足そうにうなずいた。
 水で両手を洗おうと、バケツのところへ行った。だが水をのぞいてみると、悲しいかな、手を洗うにはバケツの水はあまりにも汚すぎた。
 結局――代用品として満足はできないが、仕方あるまいと――砂の中に手を入れて、汚れを取った。
 将校は立ち上がって、両手で軍服のボタンを外した。その際、衿の間に挟んでいた二枚の婦人用ハンカチが落ちた。
「これは、お前のハンカチだ。」
 将校が囚人に投げやると、旅人の方を向いて、弁解めいた感じで言った。
「ご婦人方の手向けなんですよ。」
 軍服の上を脱ぎ終わると、大急ぎで下にとりかかり、丸裸になった。すると今度は、その軍服をとても丁寧にたたみ始め、上着の銀モールに至っては、指でなでつけ、房飾りもきれいにそろえた。
 それは将校の細かい性格を表しているように見えたが、ひとつひとつの整頓が終わると、その次の瞬間、不機嫌そうに素早く穴へ服を投げ込んだ。
 今や将校が身に着けているのは、吊り紐とそれに挿されたサーベルだけだった。
 将校はサーベルを鞘から引き抜くと、二つにへし折って、折れた剣と鞘と吊り紐、みんなまとめて穴へ投げつけた。
 穴の下の方から、金属がぶつかり合うような音が聞こえた。
 将校が丸裸で立っていた。
 旅人は、唇を噛んで黙っていた。
 これから何が起こるのか、それはわかっていた。だが、旅人にそれを止める権利はない。
 将校が愛しているこの裁判制度が、まさに今滅びようとしているのなら――もしかすると、旅人が自分の信念に従って取った行動のためかもしれないが――、将校がこれからすることはまったく正しいことであった。旅人も同じ立場にあったら、同じことをしただろう。
 兵士と囚人は、どういうことなのか、最初わかっていなかった。目も向けることすらしていなかった。ただ、ハンカチを返してもらったので、喜んでいるばかりだった。
 しかし、そう長くは喜んでいられなかった。不意に兵士が、ハンカチをさっと取り上げた。
 囚人は、兵士が腰のベルトに押し込んだハンカチを引っぱり出そうとしたが、兵士もそうはさせまいとし、二人は冗談半分に争った。
 やがて二人は、将校が丸裸になっていることに気がついた。特に囚人の方は、状況が大きく変わったことが、徐々に飲み込めてきたようだった。
 自分に起こっていたことが、今度は将校に起こっている。もしかすると、将校は最後の最後まで行くかもしれない。あのよそ者の旅人が、そういうふうに命じたのかもしれない。これは立派な復讐じゃないか。自分はもう苦しまなくてもいい代わりに、あいつが逆襲される。
 囚人の顔に、満面の笑みが浮かぶ。
 将校が、機械に横たわった。
 将校が機械をよく理解しているということは、もはや疑いようのないことだが、今になって、この機械を巧みに扱い、そしてその意のままに動くと言うことに、改めて感心するのだった。
 ただ手を『まぐわ』に少し触れさせるだけで、『まぐわ』は上下動を繰り返し、正確な位置にとどまって、あとはそれを受け入れるだけだった。
 将校が『ベッド』に手をやると、ただちに震え始めた。
 フェルトの栓が近づいてきて、本当は口に含みたくないというように、将校は一瞬ためらいを見せたが、すぐに気を取り直して、フェルトを口にくわえた。
 準備がすべて完了した。
 ただ、革ひもが放っておかれたままだったが、何の意味もないものだった。将校は縛らずとも、逃げるおそれはないからだ。
 しかし、革ひもが結ばれていないことに、囚人が気づいた。囚人の考えによると、革ひもをくくらなければ、処刑が完全ではないらしい。
 囚人はあわてて兵士に合図を出して、将校を縛り付けるために駆けていった。
 将校はすでに片足を伸ばして、『製図屋』の電源を入れるために、レバーを倒そうとしていた。
 そのとき、将校は二人が駆け寄ってくるのが目に入ったので、片足を引っ込めて、固定されるがままにした。
 そうなると当然、将校の足はレバーに届かなくなる。
 兵士も囚人もそのことに気がついてなかった。
 旅人はもう手出しはしないと心に決めていた。
 しかし要らぬ心配だった。
 革ひもが留められると、即座に機械が動き始めた。『ベッド』が震えて、針が肌の上で踊った。『まぐわ』が上下にふわふわと移動する。
 旅人は、動く前から地面だけを見つめていたが、しばらくしてから、はっとした。
 きぃきぃ音を立てるはずだった『製図屋』の歯車が、何の音も立てていなかった。静かで、ほんのわずかな音もしていなかった。
 動きがあまりに静かなので、注意が機械からそれてしまった。旅人は向かい側の兵士と囚人を見やった。
 囚人の方が生き生きしていて、機械に興味津々らしく、あるときは身をかがめて、あるときは背伸びをして、絶えず人差し指で兵士にあれやこれやを示していた。
 旅人はその光景を見て、不愉快な気分になった。最後まで見届けると決めていたのだが、二人をこれ以上見るのだけは我慢ならなかった。
「出て行ってください。」
 旅人が言った。
 兵士はそれに従おうとしたが、囚人はその言葉を何か刑罰のように感じたのか、手を組んで、ここにいられるよう嘆願した。
 旅人が受け入れられないと首を振ると、囚人はひざまずいて頼み続けた。
 旅人は、ここで命令をしても無駄だと思って、力ずくで二人を追い払おうとした。
 そのとき、上の方から『製図屋』の立てる不協和音が聞こえてきた。
 旅人は見上げた。
 歯車が動作の妨げになったのか?
 しかし、それは違っていた。
 ゆっくりと『製図屋』の蓋が持ち上がって、ぱたんとひとりでに開いてしまった。
 そこから歯車の歯が姿を現して、ぐんぐん歯車が上がってくる。まもなく全体が見えるようになった。
 何か大きな力が、『製図屋』の内部を圧し潰したようだった。その結果、歯車の居場所がなくなって、『製図屋』の端に回転しながらやってきたのだ。
 上がりきった歯車が、ぽろっと下に落ちた。ある程度砂の上でころころと転がったかと思うと、ぺたんと横に倒れた。
 すぐに代わりの歯車が上がってきた。大きいのやら、小さいのやら、かろうじて見えるくらいのやらが、次から次へと上がってきては、みんな同じように落っこちる。
 いくら何でも、もう『製図屋』の中は空になっただろう、と思うと、さらに新しい歯車が現れたり、中にはいくつもの歯車が組み合わさってやってきたりすることもあり、それから下に落ちて、砂の上を転がって、ぱたんと横になる。
 この出来事のために、囚人は旅人に命令されたこともすっかり忘れて、歯車に心を奪われてしまった。
 囚人はつかみたいという気持ちを抑えきれず、兵士に手伝えとはやしたてつつも、自分で手を出そうとした。
 しかし次の歯車がすぐに出てくるため、びっくりして手を引っ込めた。また、歯車が回りながら出てくる間は、怯えてまったく手を出さない。
 一方、旅人はたいへん心配していた。
 機械はもうぽんこつと言ってもいいような状態になっている。何事もなく動いているように見えたのは、ほんの幻に過ぎなかった。
 旅人は、将校の面倒を自分が見なければならないような気持ちになった。というのも、もう将校は自分で自分のことは何にもできなくなっているからだ。
 歯車の落下に気を取られている間、旅人は機械の他の部分に気を遣うことができなかったのだが、『製図屋』から最後の歯車が落ちるのを見届けると、『まぐわ』を調べようと身体を傾けた。
 その瞬間、まったく予期せぬ事が起こって、旅人はわが目を疑った。
 『まぐわ』が文字を書かずに、将校の身体に針を突き刺したのだ。
 『ベッド』も身体を転がろうとせず、ただ震えながら上へ持ち上げたため、将校の身体に針がさらに深く突き刺さる。
 旅人は何とかしようと思った。場合によっては、この機械を止めることさえ考えた。
 これはもはや、将校の理想としていた拷問ではない。単なる殺人に過ぎない。
 旅人は両手を伸ばしたが、もうこのときには、『まぐわ』が宙に浮いた将校の身体を、針の刺さったまま、機械のわきへ運び出した。
 それは十二時間の末、最後になされるはずの動作だった。
 血が洪水のように、止めどなく流れ出る。水は吹きつけられず、配水管もまったく機能しなかった。
 最後の機能もうまく働かなかった。
 長い針は刺さったまま身体を離そうとせず、血が大量に吹き出ていた。
 穴の中に落ちることなく、将校の身体は宙ぶらりんになっていた。
 『まぐわ』はただちに元の位置へ戻ろうとしたが、最後の動作が完了していないことを自分で気づいたのか、そのまま穴の上で停止した。
「助けてください!」
 旅人が、向こう側にいる兵士と囚人に対して叫びながら、将校の足をつかんだ。
 自分が足に体重をかけて、二人が頭を抱えて、下に引っ張れば針が外れるかもしれないと、そう考えた。
 だが、二人はこちらへ来るのをしぶった。囚人は背を向けさえした。
 旅人がわざわざ向こう側へ行って、強引に連れてくるしかなかった。
 このとき、旅人は見たくなかった死体の顔が目に入ってしまった。
 その顔は、生きているときの顔と変わりなかった。
 約束された救済は、少したりとも現れていなかった。
 これまで機械の上に寝かされてきた多くの人々には見られたすべてのものが、この将校には見られなかった。
 唇はまっすぐに結ばれていて、目は開いていた。まるで生きているかのようだった。視線は穏やかで、確信に満ちていた。
 額に、長い鉄のキリがぐっさりと突き刺さっていた。

 旅人が、兵士と囚人を後ろに従えて、港の近くにある街へやってきた。
 兵士は一軒の建物を指差した。
「ここが、その喫茶店です。」
 ある家の一階に、奥行きのあって、天井の低い、まるで洞窟のような部屋があった。壁と天井が煙草の煙ですすけていた。その割には、通りに面したところが開け放しになっていて、どう汚れたのかよくわからなかった。
 この流刑地では、どんな家も、司令官の宮殿に至るまで、どれもひどく荒れ果てた感じだったが、この喫茶店は少し違っていた。
 何か時代に取り残された遺物のような気がして、過去を感じずにはいられなかった。
 旅人は二人を連れて、喫茶店に近づいた。通りにある空席のテーブルの中を通り抜けて、店内に入る。
 冷たくじめじめした空気が、店の奥の方から流れてきた。
「先の人は、ここに埋葬されています。」
 兵士が言った。
「教会の墓地は、牧師に断られたんです。そこで、しばらくどこに埋葬しようかと決めかねていたのですが、結局ここに落ち着きました。将校は、きっとそのことをしゃべらなかったでしょうね。なんせ、あの人はこのことを本当にこの上ない恥というふうに考えていましたから。それどころか、あの人は深夜、何度か先の人の墓を掘り返そうとしたんです。いつも追い払われてましたけどね。」
「どこに、墓が?」
 旅人は尋ねた。兵士の言ってることの意味がわからなかった。
 兵士と囚人はすぐさま駆け出して、墓があるはずの場所を腕を伸ばして指し示しながら、旅人を一番奥の壁まで案内した。
 そこには、テーブルのいくつかに客が座っていた。おそらく港の働き手だろう。屈強な男で、無精ひげが顔全体を覆いつくしている。上には何も着ておらず、はいているズボンもぼろぼろで、貧しく哀れな連中だった。
 旅人が近づくと、何人かが立ち上がった。壁際に下がって、旅人を待ち受けた。
「あいつ、よそ者だぜ。」
 男たちが旅人について、あれやこれやささやいた。
「墓を見たいんだってよ。」
 二人があるテーブルをわきにずらすと、その下には本当に墓石があった。質の悪い石で、テーブルの下に隠れるほどの高さしかなかった。
 墓石には小さな字で文章が彫られていて、旅人はそれを読もうと、床にひざまずいた。
 そこには、次のように記されてあった。
“ココニ先ノ司令官永眠ス。故アリテ名ハ伏セオキシガ、閣下ノ崇拝者、ココニ墓ヲ掘リ、石置キタリ。アル予言ニヨラバ、閣下、定メラレシ年月過ギシノチ、コノ世ニ甦リ、コノ家カラコノ地ヲ再ビ征服センガタメ、崇拝者ヲ連レテ立ツ、トアリ。待テ、シカシテ希望セヨ!”
 旅人が読み終えて立ち上がったとき、周りに立っていた男たちがくすくすと笑っているのに気がついた。
 この文章を読んだ同志といったような感じで、こんなのばかばかしいだろう、ということに同意を求めているようだった。
 旅人は、何もわからないといったような顔をして、小銭を男たちにばらまいた。テーブルが墓の上に戻されるのを待ってから、喫茶店を出て、港へ向かった。
 兵士と囚人は喫茶店で知り合いに出会って、呼び止められてしまった。だが、すぐに振りほどいたのだろう、旅人がボート乗り場へ続く長い階段とちょうど真ん中あたりまで下りたとき、二人が急ぎ足で追いかけてきた。
 二人は、旅人がボートに乗り込む最期の一瞬、自分たちも強引に同乗しようと考えていた。
 階段の下で、旅人が船頭に汽船まで渡してくれないかと交渉している間、二人は無言で階段を駆け下りていた。あえて騒ぎ立てたくなかったからだ。
 だが、二人が階段の下にたどりつくと、旅人はもうボートに乗り込んでいて、船頭がボートを離岸させたところだった。
 二人はボートに飛び乗ることもできたが、旅人がボートの底から、重くて結び目のあるもやい綱を持ち上げて、今にも振り回そうと脅したので、二人は結局何もできずに終わった。





   訳者あとがき

 これはドイツの実存主義作家フランツ・カフカ(一八八三―一九二四)の生前発表された数少ない作品の一つ "In der Strafkolonie" の全訳である。底本は The Kafka Project (http://www.kafka.org/) のドイツ語原典から取り、適宜、英訳や和訳を参考にした。全体をライトノベル調に訳し上げたので、原典の段落の切り方と違っているが、内容の前後や削除追加等はしていない。訳出にあたって、ネット上で検索可能な三修社のアクセス独和辞典にはたいへんお世話になった。ここに謹んで感謝申し上げる。
 さて、今回カフカを訳出したのは、ただひとつのことが言いたいがためである。
「カフカは難しくなんかない、面白いのだ。」
 この発言はいささか主観的なきらいがあるが、これまで考えられていたようにただ不条理で難解なだけのイメージを払拭してもらいたいという意図を込めている。この作品をもって、カフカという作家の扉を興味深く開いてもらえば、訳者も幸いである。
 この作品は、旅人がある流刑地を訪れ、そこで奇妙な話に巻き込まれるという構造をしている。この作品を読み終えた読者の中には、あることに気づく人も少なくないだろう。そう、これは時雨沢恵一の連作短編『キノの旅 the Beautiful World』(電撃文庫刊)にそっくりである。透明な旅人と、風刺的にディフォルメされた世界。旅人は訪れた国に三日間だけ滞在し、そこで様々な事件に遭遇したり、色々な経験をしたりする。確かに、細かい登場人物や背景には差がある。カフカは透明な旅人の話をこの一編きりしか書かなかったが、時雨沢の方には言葉を話す自動二輪が登場し、ロードムービーとなって、連作の形を作ることに成功している。だが、物語の雰囲気を作り出す、主たる設定が酷似していることは疑いようのないことだ。ただ、その偶然の一致からだけでは、何も深読みすることはできない。しかし、読者にとってこの偶然を知ることは、たいへん有益なことではなかろうか。なぜなら、文学好きの人がこの雰囲気の話をもっと読もうと『キノの旅』というライトノベルに手を伸ばす端緒になるかもしれないし、またライトノベル好きの人が、カフカという作家に親しみを抱く一助になるかもしれない。
 今、このあとがきを読んでいる人が次にどの本を読もうとするのか知る由もないが、この訳文をきっかけに楽しい読書をしていただけるのであれば、何であれ、訳者冥利につきるというものである。





翻訳の底本:Kafka, Franz (1919) "In der Strafkolonie"
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:大久保ゆう
2003年10月1日初訳
2007年6月10日修正
2007年6月10日作成
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